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ああ、あれは昭和だったんだね!(2)

NTTではなく電電公社のおかげで、多様な人間模様を見せる家に電話がつながったので、用もないのに、倉庫の北にある公衆電話から電話をかけることになる。玄関先にみんなが集まり静かにベルを待つ。突然鳴り響いた電話の音にみんな拍手をした。

そのころから、11人の同居人はだんだん減っていった。

祖母は隣の市の神社を守ることになった。
発達障害の叔父は祖母と暮らした。野球をする少年が周りにはいなくなって寂しく過ごすことになる。祖母は、自宅のお参りでは気が済まず、信仰の道を歩み続けた。やがて、三重県の山の中に自分専用のお堂を作ることになる。急流のほとりにある寺へは夏休みに何度か遊びに行った。お堂は、寺の一角に建てられたのだ。幼心に、資金繰りが心配になったものだ。

上から目線の下の叔母は結婚して、祖母の神社の奥の部屋を使った。配偶者は、タイの支社に勤務したことを鼻にかける、神経質な男だった。子供が勝手にテレビのチャンネルを変えると、きつく叱る人だった。今も大きな木彫りのゾウが実家に残る。それを見るたび、キツネ顔の男を思い起こす。

中日ファンの上の叔母と、「ボクサー」の下の叔父は、結婚して離れていった。叔母は酒癖の悪い男と別れたり、一緒になったりを繰り返した結果、だんだんと政治的宗教の沼にはまっていく。祖母の血を感じてしまうのだが、どうだろう。叔父は酒に溺れた。ダジャレを言いながら鼻を触る癖と酒に手が伸びる習性はずっと変わらなかった。しまいには体を壊し、透析患者となった。

祖父は、2階のカオスの部屋を守っていたが、やはりしばらくして、家を出ていった。その後は、信仰がメインの祖母とは離れ、子供たちに頼るが、孤独な時間を過ごして死んでいく。警察官の夢が叶わなかった人生を思いながら。

蛇足だが、屋根の上の鶏は知らぬ間に消えていた。食べてしまったらしい。ということは、家族みんなで食したのか?胸が悪くなる話だ。


家族5人となった家は、リノベーションを実行した。

みすぼらしい玄関付近は車庫に改造され、日産チェリーが堂々と停まっていた。商品を運ぶリヤカーはその役目を終えた。

2階は改造された。台所と2つの部屋ができた。さらに、車庫の上に子供部屋ができた。子供部屋に行くのに物干し場を通るので、雨の日は濡れるのが嫌だった。物干し場は、雨量計測の宿題には非常に役に立つ場所になったのは事実だが。

風呂がつき、行水はなくなる。そして、近所の銭湯はかなり暇になっていく。トイレは水洗になる。悪臭を放つバキュームカーを見ることは、どんどん減っていった。

台所にはプロパンガスのボンベが置かれ、食事が西洋的になる。メニューは、フライや炒め物が多くなる。家族の推しは、名古屋名物、エビフライと味噌カツであった。

工場(こうば)には、一つ二つと新しい機械が入った。大釜の上で機械仕掛けの大きなヘラが回転して、あんこや団子の生地を作り上げた。杵を持つ餅つきの機械も導入された。団子の玉を出す機械は、電話と同じくらい偉大な発明品に見えた。製造できる品数も増えたが、三色団子は主力の座を明け渡すことはなかった。つまり、家族の「団子さし競争」は続いた。


家の前の道は舗装された。道の両側に溝がつけられて雨水が流れた。子供たちは転んで、赤チンを塗ることは少なくなった。

近所の家々も改築されていき、モダンなたたずまいに変わっていった。
向かいの一ツ矢ラムネは、コカ・コーラやファンタに押されて、儲けは減っていった。コカ・コーラを始めて飲んだ子供たちは、絶対これは薬だ、と口を揃えたが、コーラの沼にはまっていった。コーラは麻薬なのだ。手を出してはいけない。


小学校の近くの高架には、国鉄や名鉄が走った。高架を疾走する新幹線ひかり号は、子供たちが眼を輝かせるものではなく、当たり前の存在になってしまった。それでも、その先頭が丸い、白いひかり号が、エイトマンのように走り去るたび、心が少しだけ揺れた。高架下の住人は撤退させられた。偉大なる田舎と揶揄される名古屋の美化のために、7丁目は消えていったのだ。

時代遅れに見えてしまう市電(路面電車)が、高架に沿ってゆったりと名古屋駅や栄町に向かっていった。ずっと変わらない風景だが、自動車の数は相当増えて交通事故も見かけるようになった。子供たちの横断を守るおばさんが、車と接触して歩道に寝かされている姿は衝撃だった。


小学校の木造校舎は鉄筋コンクリートに変わっていった。新しい机とイスが並んだ教室は入りづらい場所で、木造校舎で学んだ日々に後ろ髪をひかれた。

子供たちは通知表をひどく恐れた。各教科は5段階の相対評価で、他の生徒より劣っていることを明確にした。人物欄には、消極的だ、おとなしすぎる、と露骨な言葉が並んでいたのは、恐ろしいことだった。

通知表のせいで卑屈になりがちな子供たちは、少額の小遣いをもらうようになった。休みになると20円の市電の切符を握りしめて市電に乗った。名古屋駅に出かけてスガキヤのラーメンを食べることが、自立の始まりだったかもしれない。たまに安いソフトクリームをなめることもできた。星飛雄馬や矢吹丈に憧れた。少年マガジンが必読書となっていた。毎週80円を持って書店に走っていた。飛雄馬が、「坂本龍馬のように、たとえどぶの中であっても、前のめりに死にたい」と言えば、それが本当の死に方だと信じていた。


小学校5年生になっていた。

盲腸の手術をした。夜になって、いきなり手術が決まったのだ。腹膜炎になる一歩手前だった。退院後、授業中の発言が急増した男子が、突如出現した。盲腸の前は目立たなかった少年が、小学校5年デビューしたのだ。何故そんなことが起こったのかは、永遠の謎だ。

1968年だった。

日本は、高度経済成長期が続いていた。

メキシコオリンピックで、マラソンの君原選手が首を振りながら銀メダルを獲得した。陸上では、黒人のアメリカ選手が、表彰台で黒い手袋の拳を天に突き上げて、人種差別に抗議していた。

日本はここ数年で人々の生活の質が上がった。世界には様々な問題が表面化していたけれども、日本は無謀にも、ナンバーワンを目指しているようだった。まだ白黒のままのテレビ画面は、そんな感じを伝えてきたのだ。

大人たちはモーレツに働き、子供たちは、努力が美徳と教え込まれた。そして、「努力」と金色の文字で書かれたお土産を買った。

イエローモンキーと笑われている日本人が、メガネをかけてカメラを首にぶら下げて、世界を制するなんて。戦争で神風が吹かなかったのに。

子供たちは、大人が教室で語る言葉を考えながら、大きな疑念を抱いていた。

(続く)

To be continued.

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