三、 再 起

脳幹部運動神経中枢挫傷


 「この病院のリハビリに、何を望みますか?」入院に際して、主治医となったリハビリ科の0先生にこう聞かれた私は、母を介して、「人に車椅子を押してもらわなくても、動けるようになりたい」「人を介さなくても、コミュニケーションがとれるようになりたい」と答えた。0先生は「努力しましょう」と言ってくれたが、私の腕は、自分でほんの少し動かすのもやっとの状態だった。

 カルテには「脳幹部運動神経中枢挫傷」とあり、引き伸ばされた頭のCT(断層写真)を見ると、脳のシワは映っていないのに、頭蓋骨の中央部が円形に黒くなっている。


 「お母さんに話があるので、廊下で待っていてもらえますか」0先生の言葉に、私は付添いさんと廊下に出たが、思うようなリハビリを受けることも、すんなりと入院することもできない社会に生きている自分に、リハビリの効果が現れるとは、とても思えなかった。転院するたびに家から離れ、家族との接触回数が減り、孤独感が増していた私は、いったい何回転院すればいいのか——と、投げやりな気持ちになっていた。そんな時、年配の看護婦さんに厳しい目で見つめられ、思わず泣きだしてしまった。

 一九八一年十一月に転院したKリハビリ病院は、住宅地に隣接していた前の病院と違い、山に面していた。入院当日、同室の幼稚園の女の子が帰ってしまったお母さんを慕って泣きじゃくっていたので母があやしていると、病棟の婦長さんが部屋に挨拶に来た。入院前の来院の時、泣いていた私を見ていた人だった。婦長さんはカルテを見ながら、「すべてに介助が必要……。大変ですねえ。これまでに、あちこちの病院に行かれたようで。ここはいつ退院しますか」。本当はこんな手間のかかる患者は病棟にとって迷惑なのかもしれない。私は思わず心が固くなった。

 母と私は病室を出て、エレベーター・ホールの窓際の休憩コーナーヘ行った。足を失った青年が泣いていた。でも、私から見れば、手を使うことも、話すこともできるその人が、うらやましく見えた。

 夕食後、一人の青年に話しかけられた。見たところ普通に歩いていたが、風邪が原因で四肢麻痺になりかけた青年だった。「風邪は万病のもと」という諺が実感できた。


望みがかなった


 私は、母の押す病院の車椅子に座って、理学療法、作業療法、言語・聴覚療法を受け、食事のたびに漢方薬を飲みながら、週に一度、東洋医学科でのはり治療に行くようになり、いろいろな人と顔を合わせるようになった。でも、本来は自分に向けられるはずの看護婦さんや訓練土さんの言葉が、実際は母に向けられているためにむなしさを覚えた。私に話しかけてほしかった。様々な障害をもちながらも、話すことはできる患者さんがうらやましく、何もできない自分にさびしさを感じていたのだ。悲劇のヒロインのような悲愴感だった。

 ところが数日経ったある日、作業療法に行った私は驚いてしまった。何と、理学療法士の0先生(前述の0先生とは別人)と作業療法士のH先生、リハビリ工学科のT先生たちが、病院の古い電動車椅子を前に、「これを茉本さんが操作できるように改造しよう」と話していたのだ。S園でもT病院でも、作業療法は手を動かす運動ばかりだったので、今回もまた、同じような訓練をするだけだろうと思っていたからだ。

 Kリハビリ病院で初めて電動車椅子に乗ったころは、レバーを握らせてもらえば握れたが、腕に体重をかけることも、一人でレバーを離すこともまだできなかった。でも、当時から私は首が一番自由に動かせたので、電動車椅子を顎で操作できるように改造することになった。そして数日後には、電動車椅子の走行練習を始めることができた。作業療法では、私が伝えたいことを自分で伝えられるように、「ヘッド・スティック」(頭にかぶって、おでこから出た棒を指がわりにする補助具)を作ってもらった。こうして一年あまり、神様としか話すことができなかった私は、自分の話したいことを話したい人に、私のつくる文章で伝えられるようになった。望みがかなったのだ。光る人の言葉どおりになれた私はうれしくてたまらず、何をしても笑みがこぼれた。

 もちろん私は、夢中になって仮名タイプを打ったり、ヘッド・スティックで本のページをめくったり、スティックの先に筆やペンをつけてもらって、字や絵をかく練習を始めた。リハビリを受ける環境の変化により、その効果がこうまで上がり、こんなにも意欲がわいてくるとは思っていなかった。

 Kリハビリ病院を見学する人が作業療法室を訪れた時に私がいると、必ず私のことを例にあげて説明をしているのが聞こえてきたが、もう人にどう思われようとかまわないという気持ちになっていた。友人に手紙を書いたり、作ってもらった文字盤とヘッド・スティックを携え、顎を乗せるレバー部にタオルをかけ、よだれだらけの顎で病院中を走り回っては、しやべった。

 でも当時のヘッド・スティックはあまり形がよくなかったので、普段はヘッド・スティックを外していた。だれかに話を聞いてもらうときだけヘッド・スティックをつけてもらい、文字盤を持ってもらうことにしていたので、自分ではだれかに声をかけたいと思っていても、状況によっては話ができないこともしばしばであった。

 いつもは、訓練時間が終わると病棟に帰り、ベッドに横になって体を休めるのだが、病棟に帰ると手動の車椅子に乗り換えなくてはならず、いったんベッドに寝てしまうとナースコールを押すこともヘッド・スティックを使うことも困難になり、コミュニケーションがとりにくくなったので、最初のうちはなるべく病棟に帰らずに電動車椅子に乗って操作を練習していた。そのうちにうまく操作できるようになった私は、病棟内でも電動車椅子に乗ってよいことになり、起床時から消灯時まで電動車椅子に乗るようになった。

 私は自主訓練(マット上で肘を立てて腹ばいにさせてもらったり、起立台に立たせてもらったり、電動車椅子の操作練習のため病院内外を走行する)という名目で、病棟に帰らず理学療法室に入りびたっていた。訓練士の先生たちに自分の話を聞いてもらいながら、壁に貼られた「国連障害者年」のポスターを見ては、いつか自分も街を歩けるようになることを夢見た。

 コミュニケーションの手段を手に入れ、ニコニコしている私を見て、主治医の先生や担当の訓練士さんなどのスタッフはもちろん、同じ病棟の看護婦さん、患者さん、担当外の訓練士さんたち、他の病棟の看護婦さんまでもが、「亜沙子ちゃん!」とにこやかに声をかけてくれるようになった。


話すことへの切なる願い


 言語療法では、よだれを飲み込む練習をしたり、吸い飲みではなくコップで水分を摂る練習をしようとしたが、まだ舌や口の周囲の麻痺が強すぎてほとんど効果はなく、D先生と話しをして過ごすことが多かった。ある時、「今の自分がほしい機器」の話になり、第一に「合成音声機」をあげた私にD先生は、「やっぱりそうだよね。僕も作ってみたいけれど、合成音声機は普通に発語できる人には必要とされない。だから、合成音声機が必要なごく少数の人のために、高額の資金を使って開発する業者がないのが現状なんだ」と言った。

 7B病棟の脊髄損傷や頸椎損傷の人たちは話すことができるので、私の憧れの存在だった。少し離れたところにいる人に声をかけて、ジュースやタバコを買ってくれるよう頼んだり、その他の介助についても言葉で依頼や説明ができたからだ。病院のカルテの上では、必要な治療や訓練方法が違い、患者としては必要な機器やケア方法が違っても、身体障害者手帳のうえでは、「一種一級」として同一に扱われる。私には障害の等級の区分けがあまりにもおおざっぱに思え、手帳の意味もよくわからなかった。

 「普通に話すようにはいかないけれど、亜沙子ちゃんは、ヘッド・スティックを使ってこうして話せるし、タイプを打つことによって文章が書ける。悔しい思いとか、おかしいと思うこととか、心の奥にしまわないで書くんだ。少しつらいかもしれないけど、心配しなくても大丈夫。今は大きいし、高価だし、個人ではとても買えないコンピュータだけど、そのうちに小型になって、価格も個人で買えるくらいになる。そういう時に、本当にしゃべれなくて困っている亜沙子ちゃんみたいな人が、世の中に訴えるんだ。そうすればきっと、僕たちなんかが訴えるよりも早く世の中が変わるだろう」

 D先生はそうも言ってくれた。この言葉を信じたかった。心理療法では、H先生が母に私のもともとの性格などを聞いていたが、私が文字盤とヘッド・スティックで話せるようになってからは、簡単な心理テスト、知能テストを行った。そして、その結果をもとにしてスタッフの先生方が私の内面を理解し、対応してくれたので、私にとってKリハビリ病院はとても居心地がよかった。
 
 「文字盤では、ヘッド・スティックで指す文字をずっと見ていてもらわなければいけないから、読むのが大変だし、ひらがなばかりでは、難しい話がしにくいから困る」という私の不満を聞いて、B先生はC社のコミュニケーターを紹介してくれた。このコミュニケーターは、C社がアメリカ向けに製造販売していたもので、アルファベットしかなかったが、手のひらサイズで、細長い紙に打った文字が、印刷されて出てくるようになっていた。私は、このコミュニケーターを日本向けに製造販売するにあたって、モニターとなった。


ベッドで謹慎


 付添い期間が終わり、母が家に帰ったので、私の日常の世話は看護婦さんに引き継がれた。でも、それまでの私の世話は母に任せきりにしていたので、看護婦さんたちには私の介助方法がよくわからなかった。私は介助方法を説明しようとしたが、文字盤での説明は時間がかかるうえ、食事介助、就寝介助、起床介助など、見本を見ないとよくわからない部分もあり、看護婦さんたちは母を呼んで教えてもらわなければならなかった。どうして母が付き添っている間に、介助法などを観察したり、聞いたりして覚えておかなかったのかと不思議に思ったが、看護婦さんたちは忙しくて、そんなことをしている時間がなかったのだろう。看護婦さんも人手不足なのだ。

 ある時、「一人でエレベーターに乗ってはいけない」ということになっていた私が、「待ってて!」と言い残してどこかに行ってしまった看護婦さんを、エレベーターの前で待っていると「今、看護婦さんは忙しいから、一緒に行こう。理学療法室に行くんだろう?」と声をかけてくれた患者さんがいた。でも、「待ってて」と言われたし——。迷いながらも、その人の後についてエレベーターに乗り込んだ。が、何の問題もなく理学療法室に行くことができたので、その後の私は一人でエレベーターに乗ってもよいことになった。私がエレベーターに乗り込むと、だれかが「何階に行く? 一階? 二階? 三階?」と聞いてくれたからだ。

 もちろん、いくら声を出して注意を引こうとしても、エレベーターに乗り合わせた人がその声に気づかなかったり、行き先の階を聞いてくれなかったりして、私だけがエレベーターに残されてしまったこともある。そんな時は、最後の人と一緒に降りてナースステーションに行ったり、顔見知りの訓練士さんに出会うまで、エレベーターで上下したりしたものだった。

 ある日、理学療法士の0先生が出張した。私は理学療法をして過ごす時間がいちばん長く、0先生にはいろいろな話を聞いてもらっていた。受傷後の私が初めて親しみを感じて接した人だった。他の先生に理学療法を受けながら0先生の帰りを待っていると、夕方、0先生は病院に戻り、理学療法室に姿を現したが、そばに行って話を聞いてもらうことはできなかった。ちょっとさびしい気がしたが、まだ夕食(午後六時から)には早かったので、私はまっすぐ病棟に帰る気にならず、理学療法室を出て左手のKホームに続く廊下を走ることにした。

 窓の外はすでに真っ暗だった。気分転換にKホームの玄関から外に出てみたが、とても寒かったので、大きくUターンして帰ろうとした時だった。電動車椅子の後輪がスロープ側面の段差から落ちてしまい、「あっ!」と思った時には電動車椅子がバランスを崩し、私はそのはずみで地面に頭をぶつけていた。

 それほど痛くはなかったが、「自分では起き上がれないのなら、こんな時に外に出るんじゃなかった!」と反省せずにはいられなかった。助けを求めたかったが、こんなところでいくら声を出してもだれも気づくはずがない。寒さのなか、夜空のオリオン座を見ながら、祈るような気持ちで横たわっていると、そのうちKホームの玄関から人が出てきた。慌てて精一杯の声を出すと、その人はあたりを見回し、「子猫か? こんな季節なのに、いやに鳴いてるな……」とつぶやいた。やがてその人は、駐車している車の横に電動車椅子と一緒に転倒している私に気づいてくれた。

 「大丈夫ですか? ずっとこうしていたんですか!? 私はKホームの職員で、さっきあなたがそこから出ていったのを見ていたんです。なかなか帰ってこないから、ちょっと気になっていたんですが、Kリハビリ病院の玄関のほうに行ったかもしれないし、探しにいくこともないなと思って……。もっと早く見にくればよかった。どこかぶつけましたか? ここは暗くて見えないから、ともかく中に入りましょう……」

 その人は私の体を起こそうとしたが、尾胝骨が地面に当たって痛かった。思わず声が出ると、「起こすとどこか痛いですか? もしかして、腰とかお尻の骨が地面に当たりますか? 無理に起こすと傷になって褥瘡になるから、痛くなければこのままで待っていてください。大丈夫ですか? ところであなたのお名前、病棟はどこですか?」

 私が話せないことを知らない人から問いかけられ、一瞬、どうしようかと思った。しかし幸いその人は、首を後ろに向けた私のしぐさを見逃さず、私が車椅子の背もたれのポケットを見ようとしているのを理解してくれた。「何か入っているんですか。何もありませんよ……。ああ、これですね」地面に落ちた文字盤とヘッド・スティックに気づいたその人は、私の障害を把握し、「ちょっと待っていてください。『こういうものを持った人が転倒している』と言ってきますから」と、病院のほうに足早に向かっていった。

 すぐに、看護婦さんとストレッチャーが手配され、それに乗せられた私は、駆けつけた0先生と一緒にCTを撮りにいくことになった。

 心では深く反省して、何も言わない0先生に「ごめんなさい」と言いたかったのに、なぜか私の顔は笑っていた。この出来事が原因で熱を出した私は、ベッド上で謹慎処分を受けているような気分になった。

 電動車椅子に乗れるようになったことで、歩きはじめた子どものようなことをしてしまった私だったが、電動車椅子はヘッド・スティックと文字盤によるコミュニケーションだけでなく、私が表情やしぐさ、視線、声で人と接することを可能にした。そのことは私の心を活性化させ、Kリハビリ病院での入院生活に、多くの心ときめく出来事との出会いをもたらした。

 しかし、年が明けてしばらくすると、病院から、退院の要請があった。
 ある夜、すでにベッドに入っていた私は、両親に退院後についての希望を聞かれた。まだ十四歳で社会の仕組みも何も知らない私だったが、以前に比べれば、コミュニケーションはとりやすくなっているし、電動車椅子で自走できるから、自宅に戻るよりもS園に戻るほうが、将来への選択肢が多いことはわかっていた。自宅に戻れば母に負担がかかることもわかっていた。ただ、どうしても、あのみじめな思い出のあるS園に戻る気にはなれなかった。そこで「自宅に帰る」でうなずくと、母の「本当に、それでいいのね」と念をおす言葉が返ってきた。私はこの言葉に再びうなずき返したものの、部屋を出ようとする母を見て急に答えを訂正したくなり、あわてて母を呼びとめようとした。でも声は出なかった。

 私は、大勢の理学療法士やドクター、看護婦さんたちにメッセージを書いてもらったサイン帳を胸に、一九八二年二月半ば、三か月間のKリハビリ病院での入院生活を終え、自宅に帰った。


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