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心の広さは、関心の狭さ

年明けに受け取ったあるメールマガジンが
とても興味深いものでした。タイトルは

"「気に入らない」と「気にならない」の境界線はどこに?"

それに触発されて、ちょっと考えてみたのです。
心の広さ、ということについて。

多くの場合、「気に入らない」ことが少ない
或いは表面上それを見せない人を見て、私たちは
「心が広い」と感じます。

子供のころは、ざっくりと、「大人」になったら
「気に入らない」ことは減るもの…つまり
「心は広くなるもの」だとおもっていました。

まぁ、確かにそういう面も、なくはない。
でも必ずしもそうでもないなぁというのが
「大人」になった自分の実感です。

で、思うのです。
それを決めるのは、「関心の有無」なんだろうと。

関心があることには、反応せざるを得ないので
それがときに「気に入らない」という形で
表面に出てくることもあるということなんだろうと。

大人になるとは、成熟する、という言い方に
換えられることができます。

成熟すれば、心が広くなる。のだとすると
つまり「成熟」とはどういう状態を指すのか。
という話になるわけですが、

・様々な経験をして
 「多少のことでは致命傷にならない」と
 体感的にわかっている

・若い頃は曖昧だった自分の興味関心の分野が
 はっきりとわかって、注力するポイントが
 絞られている

・能力を身につけたことで
「自分の力でどうにかできる」という実感が
 持てている

というようなあたりかな、というのが自分の仮説で
共通するのは

「関心を寄せる範囲が取捨選択されている」

という感じでしょうか。
だから、言ってしまえば、心が広い人って

「関心が狭くてすんでいる人」

ってことになるんじゃないか、と思うのです。

もともと私は、文句言いのチキンハートなので
心が広くなりたいなぁ、と常々おもってきました。

でもいま思えば、それだけいろいろなことに対して
興味があり、関心があり、良くしたい思いがあり
周りに関わりたい思いがあったということ。

いつまでたっても成熟してないテーマがあるくらい
新しいことにチャレンジしてきたということ。
エネルギー注いで、全力でがんばってきたということ。

それは全然恥ずべきことじゃないし
むしろええやん、なにか問題でも?といった塩梅で
最近はそういう成熟しない時間も、プロセスとして
大事にしたいなと考えるようになりました。

「気に入らない」ことは、いまももちろんあって
そのたびイライラしたり、文句を言ったりしてます。

きっと何かに興味関心がある限り
そして誰かとの関わりがある限り
「気に入らない」ことがなくなることはないのでしょう。

それで、いいんじゃないでしょうか。

心が広くなった、と思ったときには
「関心を絞れるくらい成熟したな」と喜べばいいし
気に入らないな、と思ったときには
「そのくらいこのことが大事だ」と知ればいい。

心が広くてもいい。
気に入らないことがあってもいい。

広いとか狭いとかを問題視しなくなった
=関心を寄せなくてすむようになったことも

ひとつの自分なりの成熟の形だと、喜ぶことにしています。

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