明日は、私が、間違っているかもしれない。台風の日の、批判者のジレンマの話
東京は災害時に影響が大きく出やすい都市だけど
それは、これだけの大きな人数を動かせるという
優れた都市機能の特性の一部だとおもってる
悪天候で電車が止まったりすると、一定数
脆弱性を批判する声が聞こえてくるけれど
私は、それは無理な相談だとおもってて
おかしいのは
「こんな日でも行かなきゃいけない」のほう。
こんな日は、行かないのが正しいんだ、と。
まぁ、批判していた、ということになる。
のですが。
今日は、私が「こんな日でも行かなきゃいけない」
というシチュエーションを作る側になったのでした
個人的に呼んだわけじゃないけれど
自分が担当してる研修の開催日で
自分が招集する側の立場にいて
私自身も、雨風ひどい6時台に家を出て
傘もさせずに歩いて、大変な思いはしたけど
それよりもなによりもキツかったのは
批判してきたものに、自分がなってるということ
でした。
いろいろ迷われる状況の中だったけど
次善の策くらいはとれたとおもう、でも
もうそのことが、いたたまれなくてたまらなくて
なんかすごくしんどかったのです
でね、おもったことには
例えば、お金をたくさん稼いでる人とか
楽して幸せになってそうに見える人って
批判の対象になりやすいじゃないですか
あれ、ほんと辞めたほうがいいって。
批判をしてる人は、自分で自分の幸せに
足枷をつけてるようなもんだって。
自分の正しさには反するかもしれないけど
ほんとは、お金たくさん稼ぎたいでしょ。
楽して幸せになりたいでしょ。
なのに、批判してたら
ものすごいハードルを自分で作ることになるよ
自分が批判してきたものに
自分が間違ってると信じてきたものに
自分がなるんだよ そこに飛び込める?
批判してる分だけ、強いジレンマが生まれて
強烈なブレーキがかかっちゃうんだよ
今回、「こんな日でも行かなきゃいけない」
というシチュエーションをつくる側になったことは
それを体感する、すごく貴重な機会でした。
明日は、私が、間違っているかもしれない。
いい意味でも、悪い意味でも
そこに飛び込まなきゃいけないときはある
そのとき、こんなジレンマを生まないように
覚悟決めて、素直に飛び込んでいけるように
正しさからではなく、素直な気持ちから観る
ということを、意識していこうとおもったのでした。
はーーしっかし疲れたわ。今週はハードだ👽👽
明日も良い日でありますよーに◎