ひめゆりの塔からの帰り道、どっちの気持ちもわかるし、わからない、私みたいな人の反戦への有効性を考える
ひめゆりの塔
沖縄にはもう何度も訪れたけど
ようやく、行こうと思えた今回
多くの人は、戦争の悲惨さを
感じるのかもしれませんが
私は、少し違った感覚でした
解散命令が出てからの「彷徨」を
当時の学徒の方々が話す映像があり
まるまる1時間、全部観たんですが
どうして、こういうこと(戦争)を
やりたいと思う人がいるのかな?と
私にはその気持ちはわからない、と
おもった瞬間に
あ、それはウソだな、と思いました。
少しだけ、わかるんです。
争いに駆り立てられる心も
誰にも止められなくなった組織も
人を洗脳せずにいられなかったことも
私にも、そういうところはある。
そして、それと同時に
映像で語られる学徒の方々の気持ちも
きっと少しだけしか
わかってないんだとおもいました。
どちらの気持ちも
少しだけしかわからない自分が
なんだか情けなくて、やるせなくて
悲しくなりました。
どちらかの気持ちだけでも
もっとしっかりわかったのなら
止めることもできるのだろうに、と
でも帰り道に、ふと
いや、私はわからなくていいんだ
とおもいました。
わからない、ということは
経験していない、ということ
経験していない人が増える社会こそ
彼女らが望んだことのはずだから。
戦争に賛成か反対か選べといわれたら
もちろん反対だと答えますが
おそらく当時は当時なりに
戦争という極まりまでいかなければ
どうにもならなかったものが
あったのではなかろうかとおもいます
よりよく生きる社会に戻すために
吐き出してしまわなければいけなかった
社会的な感情の膿のようなものが
手の施しようのないところまで溜まって
戦争という形で破裂するよりほかの道が
なかったのではなかろうかとおもいます
いま、当時のような流れが
またできつつあるのだとしたら
破裂する前に少しずつ膿を出したり
そもそも溜まらないような状態を
つくっていくことが必要で
それにはもしかしたら、私のような
どっちの気持ちもわかるし、わからない
みたいなことを考えちゃう
いわゆる「空気読めない」的な人が
有効な側面があるんじゃないかな。
止めることはできなくても
風穴くらいならあけられるかもしれない
よね
まだ、うまくまとまらないけど
なんていうかな
私、言葉や音を、飛ばして歩きたいな
自分が飛ばしていくものが
溜まりそうな膿みに穴をあけたり
形成された空気を変える風を生んだり
誰かにとっての幸せの種になったり
そんなふうになったらいいなと
二度と、反戦を謳う新しい像や塔が
建てられることがないように
風穴開け屋、とか
幸せの種飛ばし屋、みたいな感じで
神様に使ってもらえないもんかな、と
そんなことに思いを巡らしながら
ひめゆりの塔を、あとにしました。