生きているのかという思考実験から【エッセイ】
スワンプマンという思考実験について聞いた。
ある男が死ぬと同時に、その男と全く同一の姿かたち記憶を持った男が誕生した。彼は生きているのか?という実験だ。
私は文中に「死ぬ」という言葉があったため、死んだと答えた。それからウイルスのように同じ塩基配列を持ったまま増殖していくものも、増殖したコピーがあったとしても最初のものは死んでいるのだから、死んでいるのだとも定義した。
しかし反論があり、彼は社会的には生きているのだ、とのこと。
こうなってくると、生死なんて非常に曖昧模糊としたものではなかろうか。
例えば無人島に一人きり残されたとして、自分は生きていると、果たして断言できるのだろうか。
「肉体は死を迎えた状態」で、生きている夢を見ているだけだとしても、それをジャッジする者が誰もいない。そもそもそのジャッジも実は曖昧なものな気がしている。
生きているとは、一体誰が決めているのか。実際、オカルティックな話になるが、死んだことに気づいていない人の話は、仕事柄よく聞くものである。
生きているとは、一体どういうことなのだろうか。
結局、そのジャッジも、生物学的になのか、社会的になのか、オカルティックな意味合いも含めてなのか、どの見地から物申すのかによっても違うのだろう。
さあ、私が生きているのか、そうでないのか、これは非常に曖昧になってきた。生物としたとき生きているのかは、医師が証明してくれるだろう。社会的に生きているかどうかは戸籍など。しかし、更に証明しようとすると、この世界の存在自体が曖昧なのである。そうすると上に挙げた証明も無効になってしまう。
果たして私は在るのか。ただの概念なのか。概念だとすると、誰の概念なのか。
これは面白くなってきた。