夢【ショートショート】
いつものようになんとなく仕事をして帰る。
もうアジサイが開き始めている。まだ今年になったばかりだと思っていたのに。もう少しで今年も半分終わる。
結婚はとうに諦めた。10年前、同期たちの結婚ラッシュのさなか、彼と出会った。私もなんとか20代で結婚できる、と胸を撫で下ろしたものだった。それから3年経ち結婚の2文字を出したが彼はお茶を濁し、更に2年経ち婚活を始めたいと言ったら、転職したいんだ、来年には安定させて必ずプロポーズするからと言われたが、結婚どころか転職すら彼はしなかった。騙されたと気づいた時にはもうなんだか結婚への情熱が冷めていた。それから仕事が忙しくなりぼんやりしているうちに、5年が経っていたという話である。今では彼とはもはや親友のような関係になっている。
この歳になると、特に目新しいことをしてみようという気にもならない。帰宅するといつも10時過ぎているから、コンビニで買ったパンを一つだけつまんで、シャワーを浴びたら、あとは寝る用意をする。土曜日は出勤のこともあるし休むこともある。休む日は、普段できない隅々を掃除したり彼と会ったりする。日曜日はもっぱら休息に使う。ひたすら家でごろごろする。そうしないと1週間体がもたないのだ。
「……だったんですよ、課長」
部下の話を聞き流してぼんやりしていた。
木下くんはいつもデリカシーがないから、業務以外の話は聞き流すようにしている。
「課長はどうでしたか?健康診断」
しかし、妙に健康診断の4文字が引っかかった。歳のせいだと思っていたが、やはり気になっていたのだ、心のどこかで。
「私は来月受けるから」
と濁して逃げた。
7月の初め、会社の利用している検診センターから電話があった。何か引っかかったらしい。よく分からないまま病院へかかった。膵臓がんステージ4だった。
余命半年と言われてもピンと来なかったし、やりたいこともなかった。
次に会った時、彼にはがんの話は一応しておいた。ありきたりな言葉で慰めてくれ、その後いつものように飲みに行った。
会社へは、面倒なのでもう少し悪くなってから言えばいいだろうと思った。
余命宣告なんてズレるものだろうと思っていたら、その医師はピタリと当ててきた。12月にはもう動けなくなった。こないだまで歩けていたのになあ。助けを求める先もなく、やむを得ず救急車を呼んだ。
やがて身体中が痛み出し、モルヒネが投与されることとなった。
それからはよく夢を見た。うとうとと浅い眠りの中で見る夢は、いつも充実して幸せそのものだった。夢の中の私は29で結婚して子供が二人いた。彼も転職して真面目に働き、私が専業主婦になっても十分養えるだけのお給料をもらってきていた。年に2回は家族旅行へ行き、年末年始は彼の実家と私の実家を訪れてにぎやかに過ごしていた。主婦の私は今の私と同じく取り立てて趣味はなかった。けれどとても幸せそうに生き生きと輝いていた。
電話できる意識のあるうちに、親に連絡をとった。色々な手続きを頼む必要もあったが、使いそびれた貯金があったことを思い出したからだ。
何年かぶりに会った親は意外なことに泣いていた。私のことなど興味もないと思っていたのに。
親が帰った夜、私もひとり病室で泣いた。泣いたのなんて何年ぶりだろう。私は仕事もあった。住むところもあった。なのに何が悲しかったのか分からなかった。ただ、夢の中の私は幸せそうだなと思った。