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知らない【ショートショート 恋愛】
17時半。この時間まで待つと決めていた。この喫茶店の閉店は18時であり、閉店までの間心を鎮めたいと思っていたからだ。
前のデートの日、あなたは指輪を付けていた。付き合い初めて5年、初めてのことだったから、私はこれが最後のデートだとわかった。けれど、念を押して、必ず2月27日には来てね、と、何度も何度も場所と時間を伝えた。2人で迎える4度目のあなたの誕生日だったから。仕事を終わって、いつもならあなたは18時ぎりぎりに来るだろう。
けれど今年はあなたは来なかった。
一杯のコーヒーで1時間粘ってしまったので、心を落ち着かせるためにもモカを頼む。あなたの好きな豆だ。馬鹿だなと思う。あなたのことを心から引き離すために、あなたの好きなコーヒーを頼むなんて。
モカが運ばれてきた時、不意に窓の外が気になった。見るとそこには、笑顔のあなたがいた。小躍りしそうになってきづく。あなたのその笑顔は窓のこちらに向けられていないことを。右手を繋いでいる女性に笑いかけていた。そして左手には指輪が光っていた。
あなたはそんなずるい人じゃない。
ここで待っている私に、もう望みはないよと伝えるために奥さんと仲良く歩く姿を見せるような、そんな狡猾なことの出来る人ではない。
ということは、今日の約束は、やはり彼にとって
はなかったものであり、私がいつもの窓際の席であなたを心待ちにしているなんて、思いもよらなかったのだろう。
飲みかけのモカを置いて代金を払い、店の外に出て、あなたの目の前にたちはだかる。レンガ色のコートの奥さんを置いてきぼりにして、あなたの方を掴んで、待っていたのにどうして来てくれなかったの?今からでも間に合うからいつもの店へディナーへ行きましょう。そう言って、私はあなたの左手を掴んで歩きながら、指輪をはずし路傍へ投げ捨てる。どうしていいか分からない様子で、気の弱いあなたは私に引っ張られてついてくる。
そんな想像をした。そんなふうに奪い去って、その後どんなふうに食事すればいいのかなんて分からない。
モカをひとすすりした。ああ、こんなに酸味があったなんて知らなかった。あなたと5年も一緒にいたのに。いつかそのうち一緒に暮らして、そしたら飲めばいいやなんて思ってた。あなたが奥さんの前であんなふうに笑うのも知らなかった。私はあなたの何を知っていたというのだろう。
「お酒はお飲みになりますか?」
店主に聞かれて我に返る。自分や彼を罰したいような、奥さんが許せないような渦巻く感情が、驚いて何処へ消えた。
「バータイムも始めたんですよ」
店主は真新しいメニューを広げる。
5年間いつも、この店で待ち合わせしていたが、閉店時間は18時だった。新しいメニューには閉店は21時と書いてあった。
「新しい門出になるようなカクテルをお願いできますか」
私が頼むと、店主は承知いたしましたと言って、奥へ引っ込んだ。
ああ、私は知っていたようで何も知らなかったのかもしれない。あなたのことも、この店のことも、もっと広い世界のことも。
ピンクグレープフルーツのカクテルはとても飲みやすく、一気に飲み干した。