安倍晋三元首相の逝去について、思うこと
言葉にならない
まずは、安倍晋三元首相のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
まだまだ頭の整理がつかず、それでもこの感情を文字に残したいと思い
書かせていただきました。
多くの国民が、様々な思いでこの事件のニュースを見ていたと思います。
自分もその一人です。
個人的には「七・〇九事件」と命名したいと思うくらいの、忘れてはならないニュースであり、確実に日本の歴史になると思いました。
今言えることは「ただただ残念」であるという事。
この「残念」という言葉は、双方に向けてのものです。
標的の対象にされてしまいお亡くなりになられた安倍さん、
そして殺さないといけないと考えるまでに至った犯人の思考に対してです。
単なる「言論弾圧」と片付けてはならない
ニュースを聞いて思う事。
単なる「言論弾圧」と片付けてしまっていいのでしょうか?
犯人が打ったあの2発の声なき声。それは事情聴取したところで、正確な答えは出てこないのではないかなと考えています。
僕たちは犯人に対して「どうして打たねばならなかったのか」という「モヤモヤ感」があると思いますが、それと同時に犯人も「モヤモヤ感」があったはずで、この部分を言語化するのは非常に難しい作業だからです。
いつ何時もこの世を憂い、どうにかしないといけないと思う人は出てきます。とはいえ、勿論、殺してはならない。殺したところで何も解決しない。
寧ろ憎しみや分断を生んでしまっている。
現にSNS上では、犯人捜しが始まっていて、安倍さんに対しての過去の発言やパフォーマンスを問題視する人もいれば、安倍さんの行ってきた政策について指摘する人もいて、双方に「口撃」が始まっています。
言葉を大事にする文化がない日本
個人的な事情になりますが、僕は「吃音」を患っています。
上手く言葉を話せず、過去多くの人から嘲笑された経験があります。
なので、人一倍「言語」については、敏感なのです。
(特に僕らの世代からだと思いますが)日本語を大事にしないようになってきたと感じるようになりました。また近年では、他人の日常の会話について耳にすると汚い言葉を平気で使っているなと感じる場面が多くなった気がします。それはネットの普及と並行している気がします。
SNSの仮想空間と日常の現実空間の境目がなくなり、平気で汚い言葉を使う日本国民が増えたように感じます。
自由のなかにある自制
「自由な言論空間」は必要ですが、同時に「自由の中にある常識」も持ち合わせないといけません。その常識を持ち合わせていないから「誹謗中傷」が
生まれるのではないでしょうか。
特に不特定多数の人に発信をするのであれば、言葉や表現を選ぶべき。
色や形のない無形なものほど、僕らは気が付かない。
結局は誰かが死んだりして初めて気が付く。その時点で、日本人の感性は
(僕を含めて)恐ろしいほどに下降していると気づくべきなんです。
今回のような事があっても、自制する事を何とも思わない「無感情者」が多くネット上で騒いでいる人も居る。
思うに犯人はネット上に転がっている様々な情報を目にしたと思います。
その中の特定の情報が悪だと思いこみ、安倍さんを攻撃するまでに至ったと考えるならば、僕らが知らず知らずのうちに、犯人をそのような思想にさせてしまったのでは?と考えられなくもない。
「これを言ったらどう思われるんだろう?」
通常の言論空間であれば、第2~3者が居るなかでの発言となるため、環境のおかげで自制が働き言葉を選ぶようになる。
しかしながらネット空間では自制が働かない。
「これを言ったらどう思うんだろう?」という当たり前の思考が働かない。
昨日の事件を考えみ、僕らの何気ない一言(書き込み)が世論となり、他の見知らぬ誰か言動につながるとしたら、芸能人や政治家ではなく、一番言論に気を付けなければならないのは、僕ら一般国民ではないだろうか?
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