写真家の感性
高梨写真スタジオの高梨徹は魚町銀天街の西側、柴川添いに店を構えていた。
今は携帯電話やデジタルカメラが日常のものとなり、皆が写真を撮るようになったため、スタジオだけで食っていくには厳しく、結婚式や各種催事への出張等で凌いでいた。
たまに個展を開いたり写真集を出したりするが、生活の足しになる程度だった。
高梨は昼休みには必ず小倉城へ散歩に行く。
スタジオから歩いて十分ほどで着くし、季節の移り変わりがよく感じられる。
なにより街の中にある城という違和感が、疲れてくる心を現代の時間から解き放ってくれるようで好きだった。
城のすぐ傍にある庭園へも足を伸ばすことがある。
入場料金を払って池や庭を見ながら一ヶ月に数度ぼんやりするのだ。
この行為は高梨を「意味」から解き放つものだった。あらゆる情報が溢れている現代の中で、自分の感性を取り戻すためには言葉から解き放たれる必要がある。ただでさえ何かを考えている。世界が、政治が、事件が、地域が、思想が、写真がと、言葉や意味で頭が凝り固まってくると、直感が鈍るのは何度も経験していた。
何かを伝えようとする。だけれど写真に意味を込めようとすると途端に陳腐になってくる。そこにある。確かに存在する。存在しているのを人は頭で整理して意味づけをしていく。高梨は人が意味づけする前の写真を撮りたいのだと、ずっと思っていた。考えるよりも前に感じているからこそ心に訴えかけることができるのだと。
今日は庭園の池を眺めていた。濁った緑色の池には白色に赤いぶちが入った鯉が泳いでいる。
水面には小倉城が映っている。
すぐ近くに市役所のビルや複合施設などがあるため、高い建物に囲まれると池に隣接している書院造の木造も小さく見えてきて興を削ぐので鯉や水面に集中する。
木の葉が落ちて水面をざわめかす様子をじっと見ていると、高梨の心は吸い込まれていく。
まるで鏡を境にした向こう側へと行ってしまうかのように。
鯉が空気を吸うため水面で口を開ける。現実が少しずつ開けられた口へと落ちていく。
鯉が澱みを掻き分けていく。切り裂いていくように泳ぎを速くし、縫い合わせるように遅く浮かぶ。
雲が少し入ってきたようで日光を遮る。一瞬曇ってから晴れて強い光を鯉へと突き刺す。
鯉の白い鱗が一瞬光ったように見え、水面が割れる。無数のひし形の欠片に水面が変化して割れた先に別の世界が見えてくる。
水面を蹴る尾びれが水しぶきを跳ね上げ虹を起こす。
風が吹き体が溶け、水の中へ自らの体は砂のように吹き付けていく。
傍にある針葉樹の苦い香りが腹の奥へと落ちていく。
いつの間にか池と一緒に揺れている。微かな水面の揺れも逃さず。
ありのままに、意味も含まず、ただ感じるままに体を慣らしていく。
呼吸を整える。体に無理なく、焦らず、よく空気が内側に馴染んでくるように。
そしてよく吸い込んで息を吐いたところで鯉をもう一度見つめる。
鯉が音を立てて深遠へと消えていった。
澱みの深いところから、静かな声が聞こえてくるようで、覗き込みたくなったが、強い南日に遮られた。
水面が光を反射させて書院造の建物を照らしている。
「さてと……」
高梨は深く息を吐いて白く眩しい小倉城を見る。
「昼飯何にしようかな」
持っていたデジタルカメラの中には無意識のうちに撮った何十枚もの鯉が収められていた。
参考写真:Joe Chan