ゴッホの肖像
珍しくパイプでタバコを吸う老人だった。
例えて言うならゴッホの自画像にほぼ近い。口や頬にまで髭があり、だいぶ白髪が混じっていて、いつもジャケットを着て海を見ている。洒落たハットに煙が絡み付いているようだった。
見た目は老人っぽいのだが、体つきが顔の皺に似合わずガッシリとしていて、来ている服がはち切れんばかりだ。
海を見ている、というよりも、どうやら船を見ている。船に興味があるのか、もしくは体つきから船乗りか水兵だったのか、と色々想像はするが、どうにも話しかけづらい。
ここからは山口県が見える。下関市だ。目と鼻の先にある。だが、彼はいつも船がない時は小倉方面の工業地帯を見ていた。
タバコに火をつける仕草は実に板についている。愛しい女性を抱くように顔を俯け、パイプを両手で抱えるようする。マッチでつけた後は数回小刻みに吸ったり吐いたりして火をくぐらせる。落ち着くとゆっくりとパイプを吸い出す。最初が肝心なのだろう。パイプの様子が落ち着いてからは実に悠々と煙を吸い込んでは、感傷深く煙を吐いている。
煙は老人に寄り添うようでもあり、老人がマントのように纏っているようでもある。老人の頬や髪を撫でながら空の雲となり、夕陽に溶け、やがて夜を誘っていく様子は実にポスト印象派的な様子を……いやいや、僕が気取りすぎか。
後一時間も経たないうちに日は沈む。背にしている門司区側は明るく輝き、下関側はぼんやりと明かりを灯しだす。もしもう少し背中側の門司駅方面が暗ければ「ローヌ河の上の星月夜」という絵画とそっくりになるかもしれない。さながら、小倉の工場地帯は北九州版「星月夜」か。
僕がどうして老人のことがわかったかと言うと、関門海峡を眺めるのが好きで、関門海峡を往来する船を眺めながら浮かんだ詩を書くのが、僕の仕事のようなものだった。勝手に言ってるだけなんだけど。
詩人です、なんて言うと奇異の目でしか見られない。話す人、話す人の心の裏の苦笑が顔にまで滲み出てきて話が続かなくなる。だから僕の作品はいつも孤独だ。そんな孤独感が、あの老人と重なるのだろうか。
老人の姿は他者を寄せ付けない。実に勇壮で、次に吐く煙はいつなのか凝視してしまう。まるで煙が老人の魂のように周囲の空気を優しく絡め取っている。棘も一つもなく、煙にすら魂が滲み出ている。僕は何度かこの場所で老人を見ていくうちに、すっかり好きになってしまったのだ。
夕暮れの関門海峡を船がゆっくりと滑っていく。工場側に見えたその船から霧笛が聞こえたような気がした。気がしただけで鳴っていないのかもしれない。ただ小さな船舶の吐く煙と老人のパイプから出る煙が見事に重なり夕焼けを掲げ輝かせたかと思うほど陽は目に染みた。
手の届く場所に対岸は輝く
渡るでもなく 惹かれるでもなく
老人は岩となり 燃える炉となり
煙を荒獅子のように吐き
景色を塗りつけ 叩き付け
空を返し 視線を陽へ打ち付ける
燃え盛る空は縮み上がり
月は老人に安らぎを誘おうと必死
眠らぬ間に朝を引きずり出そうと
大地を二の足で踏みしめ
パイプ煙草に火をつける
霧笛は海峡を走り
煙は船を進ませる
男の熱の名残となって
燃え盛る証として
煙る魂は燻し銀
かの大地に立つ老人は
誇りと歴史を背負い立ち
煙のうねりに巻かれていく
僕が作った詩を、かの老人に捧げる。
参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2016/04/blog-post_22.html