時代は移り変わり
福岡県立小倉高等学校は政財界や文化人、スポーツ選手なども数多く輩出していく高校となっていくが、そこに通う倉田満にとって未来の大物など知るよしもない。
高校生の日常とはとても個人的なものであって、たとえ大人の世界に興味を持って何かを論じたとしても、精一杯の背伸びでしかないことは、思い返してみればかわいい現実だなと満は感じていた。
当時、まだ新幹線は博多まで来ていなかった。満が高校三年生の頃は千九百七十二年で、新幹線が博多まで開通したのは千九百七十五年だった。千九百七十二年は、吉田拓郎が年明け早々に「結婚しようよ」という曲を発表し、そこに続くかのように井上陽水が三月に彼の名義でデビューし、七月には「傘がない」を発表した。
満は同じ福岡出身の井上陽水の存在に衝撃を受けた。こんなやつがいたのか、と。生意気にも思春期の鋭い感性で井上陽水名義でのデビュー曲「人生が二度あれば」よりも、次の発表曲「傘がない」に心惹かれたのだった。
時代が揺れ動いていた時期でもあった。千九百六十八年から七十年までは全共闘運動という学生たちが起こした社会への鬱憤晴らし、ようはエネルギーの使い方を持て余していた社会の過渡期でもあった。井上陽水はフォークソングという時代への反逆精神を貫いたかのように見えていたが、彼の切り口は常に独特で、かつ時代に生きる人々の心を打っていた。満はどちらかというと、学生運動の方に影響を受けて社会を穿ったような目で見ていた。
当時の音楽は全てレコードだった。彼の曲を買うために新聞配達のバイトまで始めた。高校の帰り道にあったレコードショップ「ダウンビート」に知ったような顔をしてレコードを時折眺めにいくのが好きになっていた。
その時吉田拓郎の「結婚しようよ」を手に取っていた大学生の女の子に満は一目惚れをし、お店の周辺を帰り際にうろつき、受験間近だというにも関わらず、その子を待つのが楽しみになった。大学生だとわかったのは、偶然通学の時間、小倉駅で彼女を見かけ、バスに一緒に乗り込み突いていったからだった。その日は仮病で休んだ。「傘がない」の歌詞の中に「君に逢いに行かなくちゃ」というフレーズがあり、彼女と重ね合わせ何もない自分の懸命さに酔い痴れた。
その後、「ダウンビート」に張り込むこと三ヵ月後、また彼女が店に入っていくのを見て、偶然自分も店に入った風を装い、また彼女が吉田拓郎のレコードを手に取ったところを見計らって「結婚しようよ」しか聞いてなかったにも関わらず「吉田拓郎いいですよね」と近づき、色々無理にでも勢いづけて話を合わせ続け、七十二年の秋口には三度目の逢瀬の末、デートの約束までこぎつけることができたのだった。
何せ大事な受験時期にそのようなことをしていた満だったから、当然志望校には受からず、国立は諦め私立に進むことになり両親に大目玉を食らうことになったが、二歳違いの女性とは、その後も順調に付き合いは続き、ついに満の大学卒業と共に結婚することになり、子宝にも恵まれた。
井上陽水好きだった満だが、結婚式会場では吉田拓郎の曲を熱唱し、身内にも花嫁の親族にも引かれぎみだったということは伏せておいた。
その話を満は今年十七歳になった末娘にも話し、「お前も俺くらい情熱的な男じゃなきゃ結婚、いやいや、付き合うことも考えちゃいかんぞ。ろくな男じゃないからな。今の時代の貧弱な男じゃ、頼りない!」と自信をみなぎらせてふんぞり返っていたが、末娘が一言。
「あのさ、パパ。今そんなしつこいことやったらストーカーだし、ホント、キモイから」
末娘にはぐうの音も出ない満だった。
参考写真:GMTfoto @KitaQ
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