夜間飛行

夜間飛行

 若松区の岩屋漁港近辺から海を眺めると漁火が見える。その上空を光りが直線を描いて消えていくが、ほとんどが福岡空港に着陸しようとする飛行機で、それは時計の針のようだった。

 時計は回る。星も回る。私は海岸に立ちながら波の音を聞いている。

 やがて星は円を描く前に朝日に掻き消される。

 だが、朝まではまだ長い。

 漁火があるということは、イカでも捕っているのだろうか。五月はコウイカやヤリイカが捕れる。波は穏やかで全てが消え入ってしまうほど控えめな波打ち際にも思えた。

 海はまだ冷たい。靴が濡れ、スキニージーンズに海水が上って来るようだった。

 ショーツまで浸った時、ようやく体が私の体が震えた。ようやく、ようやく。

 恐れに過剰になっていた思春期。私は私を消し続け、私が誰になったのかもわからなかった。大学生になった頃には無感動になっていて、何にも冷たい反応しか出来なくて、どんな痛みにも心が麻痺しているように動かなかった。

 男と付き合っても長く続かなかった。だから新しい刺激が欲しくて男を一ヶ月ごとに変えたこともあった。酷い生活の中、散々泥の中をもがくように歩んで、結局自分を取り戻したくなった時、手繰り寄せる糸がぷっつりと切れていた。

 私はどこに。

 探し回って見つからなくて、水に浮かんだ空き缶のように流され、錆び付き、結局はここへ。

「あんたもそろそろ結婚考えないといけないね」

 年頃になると結婚しなければいけない。そういう母親だった。いい相手がいないようだったらお見合いも考える。古い時代の考えが染み付いている人だった。

 怖い。

 自分を大事にできない人が他人を大事になんてできない。

 子供。

「産んだらね、また変わるもんだよ」

 友達の言葉。

 考えられない。想像もつかない。私は私の命の価値を感じない。

 胸まで海水が浸かる。

 何人、何十人もの男が抱いてきた体。まるで物のように、使い勝手のよい相手として扱われてきた体。それでいいと思っていた。誰かが必要としてくれている限りは、私に価値があるのだと思っていた。

 漁火が眩しい。涙が零れ、体の震えはさらに大きくなる。

 願いと祈りの虚しさを、色も感触も失ったような世界の中で。

 全てが終わりに向けて動く時間の中で、私はようやく凍えだしている。

 希望が辛い時もある。人が楽しそうに笑っているのを見ているだけで傷つくこともある。

 今私は「怖い」「冷たい」とつんざく様な体の叫びが聞こえるのがとても嬉しい。

 このまま死ねたらいいのに。このまま海の泡になればいいのに。

 突然背中から何かが私に抱きつき強い力で海岸へと引き寄せられた。

 それが何かも確認する力がなかった。

 砂浜まで引き上げられ、ようやく男の人に助けられたのだと理解した。

「死ぬなら、こういう目立つ場所だと、すぐばれるから、別の場所にした方がいいな」

 ガタガタと声を震わせながら「じゃあ、どうして助けたの」と聞くと、

「助けなきゃ俺が生きてる間ずっと後悔する。俺のためにやっただけだ」

「放っておいてよ」

「お、あれたぶん最後の飛行機だぜ。東京から来る便。福岡空港に降りるやつだ」

 見ると一筋の光りが流れていた。

「放っておいてよ……」

 言葉もかろうじて出るほどだった。

「俺も用事があってきたんだよ。嫌な事あったから海でも見て、ぼんやりしようと思ったら、まあ畳み掛けて嫌な光景が目の前にありやがる。あのなあ、放っておけっていうけど、俺だって嫌なんだよ。俺だって放っておいて欲しいよ。でもさっきも言ったように君が先客だけど助けないと後味悪すぎるの。目の前に人がいるって、そう簡単なことじゃないんだ。一人のような気がするけど、一人になれないし、一人じゃ生きられないし、誰かに気を使いすぎたり、誰かの強い気持ちに圧力を感じたり、大変だけど、死にたくなる時だってあるし、死にたい気持ちは俺も持ったことあるから、わかる部分はあるけど、人が一人いるって、放っておけ、はいそうですかって、単純じゃないんだよ。君がそこにいるだけで、それだけで重みがあるんだよ。そういう一人の重みのある人間の命が俺の目の前で消えてしまったら、俺の人生がとっても暗くなるから俺は全力で止めるんだよ。わかった?」

 重くなんてないのにな、と思っても涙が出てくる。どうしてだろう。先ほどとは違う涙。

 空が綺麗に見える。星が回っている。波はこもった音からハッキリと聞こえ出している。まるでレコードの音を聞いているような優しい感覚に包まれている。

 さっきの光は福岡空港に降りると言っていた。

 夜間飛行は終わる。無事に降りることができたら、また次の朝がちゃんと来るだろうか。

「帰ろうぜ。家まで送るよ」

 見知らぬ人の背中に砂まみれでおぶさり、私はすっと降りてきたまどろみに身を任せ目を閉じた。

 

参考写真:GMTfoto @KitaQ

http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2016/05/blog-post_53.html

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光野朝風
あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。