夫婦喧嘩と一人酒

夫婦喧嘩と一人酒

「恋をしたら必要になるのは観察力で、愛を抱いたら必要になるのは忍耐力だ。だが、この二つは、その真っ只中にいる内は自然としている。苦痛になった時点で完全に失っているのさ。恋も、愛も」

 そう言った俺の作家志望の友人がいた。

「俺はクズだし、お前は立派に生きているから、自信持って生きていけばいいんだよ」と酔った時口走ることが多かった。

 小説を書いてはいたが鳴かず飛ばずで、俺は彼の小説が好きだったが、どうにも小難しいテーマを扱っていて、すっと頭に入ってこないことがある。今時純文学なんぞ流行るのかね、とも疑問を思いながら彼に時折小説の駄賃代わりに驕ったりもしていた。

 友人と飲む時は、いつも俺の家から近い黒崎駅前にある「エビス昼夜食堂」に来ていた。店内は狭いが品揃えが家庭的で値段も安い。大瓶の銘柄も揃っていて、どれも同じ値段だというから、最初は少し高めのエビスで乾杯して、食べるものによってラガーやスーパードライに変えたりする。

 友人が珍しく小倉地酒無法松を頼んだ。日本酒は酔いすぎるからと言っていたのに初めて俺の前で飲んだ。

「まあ、お前も飲めよ」と注ぎ、まず一杯ぐいと飲み干すものだから俺も倣って同じく飲んだ。そしてそれから二人でちびちびと無言のまま飲んでいたが急に「俺さ、よく書くの止めよう止めようって思うんだけどさ、俺止めたら、自分が自分じゃなくなっちゃうんだよ。結婚もしたことないけど古女房と別れるような感覚なのかな」と珍しく弱音を吐いた。その日、友人を必至に慰めたし、その慰めの言葉も俺の中では偽りはなかったが、惨めさを感じたのかもしれない。その日以来、消息がまったくわからなくなってしまった。

 友人と最後に飲んでから、ちょうど一年経った日、妻と大きな喧嘩をした。小さなものはちょくちょくあったが、今回は俺の方も仕事で忙しく神経が逆立っており、妻も職場で差し迫った事情を抱えていて精神的に参っていた。

 五歳年下の妻は俺にもっとしっかりして欲しいと思っているらしい。結婚三年目。内科医をやっている妻の収入よりはるか下の俺は見ていて不安なところが多いと言う。なら何故結婚したのかという疑問があるが、それ以外は好きなのだと言う。

 喧嘩をする時はえげつなく、日頃の鬱憤を全てぶちまけてきて、その後俺の欠点をあげつらう。例えば時間の使い方から日々の行動、挨拶から話の聞き方、俺が面倒になった時のだらけた対応、などなど一通り言い尽くし、こうしたらもっとよくなるのにやらない、と小一時間ほど、子供のように説教を受ける。正論だから反論のしようもなく俺はただ黙って聞く。

 会社でも妻と似たようなことを、よく言われた。「だからお前は駄目なんだ」と。どこかちゃんとしていない甘さが見え隠れするのだろう。無理に変えようともしたが、精神の健康を損なったことがあり怖くなって無理に性格を変えようとすることは止めた。行動は気をつけているつもりだが、努力の片鱗が行為に現れてこない。まるで友人の作品のようだ。

 気がつけば「エビス昼夜食堂」に来ていた。無法松を頼みながら、ぶり大根、野菜炒め、玉子焼き、アサリの味噌汁を頼む。どれも家庭の味だった。素朴で、毎日食べても飽きない味。土曜の夜に妻と喧嘩をして家を飛び出してきてしまったが、この店は二十四時間やっていて、しかも半世紀以上経っている老舗だ。店内ではお母さんたちが忙しく手際よく動いている。

 時間を見ると十二時を回っていた。携帯電話にメールが何通か届いていたが、もう話し合いたい気分ではなかった。あの欠点をあげつらう妻の雄弁さときたら、普段よりも口が回っていたのだから、とても恐ろしさを感じた。普段からそう思っているのではないか。俺の至らぬ点をただ我慢しているだけなんじゃないか。

 酒と料理がテーブルに届くとぶり大根やら、アサリの味噌汁やらを口に運ぶ。どこか懐かしいような、ホッとするような気分になり、自分がどうにも情けなくなり、熱燗を飲みながら涙が出てきた。玉子焼きを口で噛み締めている時には涙の塩味だけで玉子焼きが食えた。

 家庭を持ったはずなのに、家庭的なものに憧れているのだろうか。一緒にやっていけるんだろうか。一人になりたい。こんな調子で子供なんて育てられるのだろうか。きっと妻の言葉にグサグサ来るのは彼女が俺のことをよく見ているから、よく理解しているからこそ的を得ているんだろうな。

 ふと友人の言葉を思い出す。妻は時折愛しているを俺に繰り返すことがある。妻はきっと俺のことを本当に愛しているのだろうし、いまだ恋をしているのかもしれない。でもなんで、俺なんかと一緒になったんだ。

 別れたところで何か残るだろうか。それよりも、夫婦って恋とか愛とかの次元なんだろうか。結婚三年目にして、俺自身がどこかギクシャクしだしている。妻のせいじゃない。変わらない俺がいけない。

 努力してきたさ。でも君みたいに俺は人間的性能がよくないんだ。

 杯は重なり二時を回る。きっと妻はもう寝ただろう。帰りづらくなってきた。年上なのに情けない。

 ふと無視していたメールを見る。

「お酒飲み過ぎないように、気をつけて帰ってきてください」

 お見通しってわけか。

 よし、今度スペースワールドにでも一緒に行こう。もう一度話し合って俺の気持ちも伝えて、誘おう。

 そういえば、と思い出した。俺がロングヘアが好きだと言ってから一度も髪を切ってない妻のことを。

 それにすら気がつかなかった俺は愚かだ。家に、帰ろう。俺の家は妻がいるところなのだから。


参考写真:GMTfoto @KitaQ

http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2013/11/blog-post_2684.html

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光野朝風
あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。