旅の始まり 1/2
かつてそこは強大な魔法都市国家だった。
「ベニファーノ」と呼ばれる、その国は「滅びた」と今は言われている。
言われているが誰も確認したことがない。
使者も、商人も、旅人も、小規模の軍でさえも、誰一人行ったら戻ってこない。
ベニファーノからの人間は誰も来ない。
突然の鎖国か、ならば使者ぐらいは戻ってくるはず。
ましてや、派遣した人間ならば一人でも戻ってこられるはず。
もはやそこが一つの大きな底なし穴のように一つの声も届いてこない。
大きな望遠鏡を使って見ようとする者もいたが、霞がかかっているように見えない。
大きな淀んだ球体が見えるだけだった。
突然の「国家の消滅」から三年。調査をしようとするものもいなくなったある日。
よく晴れ渡った日だった。日は照りつけ、汗ばむほどで、鳥は歌い、蝶は飛び、色とりどりの花は咲き乱れていた。その中で似つかわしくない影。
その影は鉄の棺桶を引きずっていた。
黒のローブを深々と被り、右手で持っている棺桶の鎖はジャラリと鳴り、大きな宝玉のついた立派な杖を左手についており、車輪のついている棺桶の引きずる音は鉄の車輪のせいか、時折「キィ」と妙な音を発する。
庶民では木の棺桶がいいところだった。装飾も何もない、ただ板を張り合わせ、使いまわしの、墓に入れるまでの借り物でしかないような質素さ。
しかし影の引く鉄の棺桶には装飾が施され、派手さこそはないものの宝石まであしらってある。農民や地主程度では目にできない。
影の頭の中には呼び声が時に聞こえていた。
「何の声だ。これは。俺の名前を呼ぶ、この声は」
苛まされるほどに頭の中に反響する声に時折発狂しかけながらも抑え、我慢できずに声を上げる。
「うっああああああああっ!」
振り払うのだ。この声を。自分の声ではない声を。さもなければ俺が狂う。
影は言い聞かせながら棺桶を引いていた。
目的はただ一つ。
自らが生まれた証を絶やさぬために。最愛の最後の一片が散らないように。
過程を無駄にしないために。
美しき太陽の輝きが花を火のように照らした後の暮れ、棺桶の装飾に目を光らせる一団がいた。
森の中から息をひそめ、そっと狙っている。
一団は息をしていることすら悟られないよう、ネズミよりも狐よりも慎重に、地に根が這うように気を使いながら男に近づいていく。
道は一本道。
通る道の先に足早に身を潜め、近づくのを待つ。
狙いは棺桶だ。
大量の装飾品をはがして売るだけでも十年は贅沢はできそうだ、ボロそうな男は殺してしまっていい、と一団の皆が思っていた。
車輪が土を踏みつけ回る音が近づく。
藪に隠れた男たちが今だと一斉に襲い掛かる。
「やれー!」
掛け声が先なのか襲い掛かろうとしたのが先なのかわからないほど、一団は興奮していた。
統制の取れない動きで各々バラバラに個人の力に任せて男を殺そうと襲い掛かる。
少々錆びついた斧や剣を振りかかった者が先行したため、一名構えていた弓手は矢を放てずにいた。首領以外に子分は六人いた。
首領は先行するものに一歩遅れた。このままでは手柄が先行に奪われると舌打ちをしながら続く。
もしこのまま先行が一撃で決めてしまえば、手柄をそいつに渡さなければいけないため、どう理由をつけて、やつの手柄をこちらに奪おうかと考えていた。
一団は修羅場には慣れていた。軍隊さえ相手にしなければ、俺らの相手ではない。
一団全員負けないと思い込んでいる。ましてや、あのボロ服。墓守のようにみすぼらしい。弱った老人のように容易く体を折れるはずだ。
「死ねぇー!」
薄汚い合唱が響いた時、斧や剣が影の頭に降りかかっているにもかかわらず、影はうつむいていた。
一団は「軽い。このまま頭ぶち割っておしまいだ」と疑いようもなく思い込んでいた。
影の頭を割ろうとする寸前で金属音が鳴り響き、猛烈な違和感に一団は状況を把握しようと凍るように止まった。
次に目の前に見えたのは鎌だった。斧も剣も刃を水平にして防いでいた。力の限り振りかぶったのに、微動だにしない。あり得ないことだった。
鎌は大きなものであって、通常のデスサイズよりも、はるかに大きなもの、それほど大きなものを持ち歩いているならば、目立つほどのものだった。しかし突然現れた。
「なっ……⁉」
全員が鎌の持ち手を視線で辿る。
どんな大男が巨大な鎌を水平にして一団の振りかぶった武器をぶらせもせずに受け止めたのか。ましてや斧を刃の先端に受けている。
その持ち手には細く白くしわ一つもない指先があった。
一同目を上げる。女がいた。
黒い喪服のようなドレス。質素ながら、やはり庶民では手の届かぬ縫いの装飾と生地。頭領には一瞬で値打ちものだとわかった。奪って間違いないものだと。宝石ほどの価値がある。
しかしこの女はどこから現れた。
華奢な手ながら男の力を片手で受け止めている。根元ならまだしも、持ち手から相当離れた場所で力を受け止めるには、俺たちの力よりも相当強くなければ不可能だ。首領は察していたが、子分たちは短絡的に声を上げる。
「てめぇ、どっから現れた! 俺たちの邪魔をするなら女と言えど、ぶっ殺すぞ!」
既に襲い掛かろうとする子分に対して首領は「待て」と声を上げようとするが、何かが光り近づくのを察知して首領は身を潜めた。
次の瞬間、五人全員の首は飛んでいた。
弧を描いて宙を舞っている。
首領は一瞬見惚れてしまった。
(こんな綺麗な血しぶきは見たことがねぇ)
それもそのはず、ただ血は宙を舞っていたのではなかった。
螺旋を描いて蛇行し、花吹雪のように黒のドレスの女の周囲にまとわれていく。
そして少しずつ霧のような血は女の中に吸い込まれていった。
「お、お前たちは、な、なんなんだ!」
尻もちをついたまま、首領はローブの影が近づくにつれ後ずさりしようともがく。
「何故奪おうとする」
男の声だった。地を這うように低く問いかけてきた。
ローブの男の横では目をつむったままの黒ドレスの女が大きなデスサイズを高々とかかげている。
こいつの鎌が降り降ろされれば俺はおしまいだ。とは思ったが首領は生き残ったことに安堵している。後ろには弓手がいる。
「打て! 獲物は止まってるぞ! 今ならテメェでもぶち抜ける! 今だ! 打てぇ!」
弓手が首領の怒号にも近い声に反応して弓を放った時、ローブの男の瞳の前で矢は止まり、後ろで木が倒れる音と悲鳴がした。
足音が首領の耳の後ろから近づいてくる。
地に重い音が響いて首領の目の前に弓手の首が転がる。
黒ドレスの女がやったんだ。だが見えなかった。いつ女が消えたのかすらわからなかった。弓が鳴る音は確かに聞こえた。
首領は思考が混乱していた。今までやりあってきた人間たちじゃない。魔法か。黒ドレスは召喚魔法か、それとも使役している魔物か。それにしては詠唱すら聞こえなかった。弓矢が止まったぞ。あれは何だ。詠唱もなく突然魔法が発動する? 魔法を道具に付け加えたエンチャントか何かか。
少ない知識で現象を理解しようとしたが何一つ及ばなく混乱するばかりだった。
ローブの男はもう一度口を開く。
「何故お前たちは他人の物を奪おうとするのだ。我々のものにも関わらず」
横目で見ると女が立っているが、デスサイズは消えている。
どうなっているんだ。だが、あの女には適わないことはわかっている。俺も殺されるかもしれない。人間の形をした魔法の塊か何かに違いない。
首領は必死に足掻く。
「う、うるせぇ! 宝石なんて、易々と手にいれられるもんじゃねぇ! そんだけ贅沢してるんだったら俺たちより悪さをして稼いだんだろ。そこから奪って何が悪い。俺たちと何が違う。てめぇらは俺ら貧しいものから金を吸い上げて贅沢なものを手にしなきゃ、宝飾品や贅沢な品なんて手に入れられねぇんだ! お前らは貧しい者の敵だ!」
「確かに私は我が身を汚して、今この棺を引いている。しかし、恐らくは貴様からは何も奪ってはいないはずだ。この棺は以上汚すわけにはいかぬ。お前の言葉に問う。お前は奪い取った後、どこか広く分け与える場を持っているのか」
「あ? あぁ! あるわな! お前から奪った後にちゃんと金品分け与えるつもりだったんだ! それをテメェは部下の命まで奪いやがった! お前は血も涙もない人間以下の野郎だ! テメェのようなやつがいるから、いつまでも俺らが苦しい生活をしなきゃいけねぇんだ! 人から奪う生活をしなきゃいけねぇんだよ!」
ローブの男は沈んだ瞳を向けたままだった。
静かに言う。
「ならば、お前の血に問おう」
「え? 何のことだ」
怯えながら言う首領の首にデスサイズが食い込む。
「ぐあぁぁ!」
薄皮一枚刃が入ったところで止まっているのを感じた首領は「はぇ?」と妙な声を上げるが、その傷から糸のように血が舞い上がっているのを見て悲鳴を上げた。
悲鳴をものともせずローブの男は宙を見上げている。
「ひゃっ、はぁっ、ふわぁー!」
首領は情けない声を上げながら混乱して悶えている。
宙に舞い上がった血は地図のように模様を描いて舞っていく。
そしてハッキリとした形を成して次々に模様を刻んでいく。
ローブの男は首領が聞いたこともない言葉を放って模様を指先で掻きまわし、血の付いた指で首領の切った首先に塗り付けると首領の心臓は感じたこともない大きな鼓動を一つ打って、凍ったように背が張った。
「俺たちより贅沢している奴なんて、どうせ貧しいやつのことなんて考えてねぇんだ。俺らの気持ちなんて理解しようがねぇんだ。豊かな人間は悪だ。俺らよりもよっぽどせこい考え方しているんだ。奪って何が悪い。あいつらは、俺らから奪い取って有り余っているのに分け与えねぇ。俺らが苦しくたって死んだってどうでもいいんだ。だったら苦しくて死にそうな立場の俺らが、あいつらにそのまま教えてやろうじゃねぇか。あいつら、きっと自分たちより貧乏だったり薄ぎたねぇ人間は死んでもいいって思っているんだろ。なら、その気持ちを逆にぶつけて何が悪いんだ。贅沢している奴から奪おうぜ。お前ら! 俺らがやっていることは正義だ! 俺たちだって生き残らなきゃいけねぇんだ! 何も悪くねぇ! 恥じることも臆することもねぇ! わかったか! お前ら! 俺らはこれから俺らを見下しているやつらに立ち向かうんだ!」
首領の口から勝手に言葉が出ていた。
仕草も、その当時に発したように動いていた。意思とは反し、記憶を口と体が再現していたのだ。
「なるほどな……」
ローブの男は静かに俯いて言った。
首領の呪縛は解けたように自由になっている。
魔法で自白まですることができるのかと冷汗が額と首を濡らしている。
「お前だって生きるために勝手な理屈をほざいているに過ぎねぇんだろ! 俺たちだって生きるためにやってるんだ! ふざけんな! 棺桶だってそうだ! お前だって奪って贅を蓄えたんだろうが! 薄汚い権力者が! 俺らが反抗して悪い理由なんて何一つねぇんだ!」
「至極真っ当に聞こえるが、言う相手を間違えたな。まず、お前の言葉には嘘があった。お前の言う真っ当な理由は言葉だけだったようだ。そして、罪を背負う我が告げる。お前自身が言った言葉だ。奪うものに対しては、奪ってもよいのだと。汚れは汚れの代償を。人の世に情けなどない。ただ行為の結末を知るだけだ。高貴な刃で汚すのはお前の死には釣り合わぬ。お前に相応しい死を用意した」
「な、何だと!」
首領は一瞬空気が淀んだ気がした。
そして血生臭さがより増している。
地面を何かが転がっている。振り向くと飛ばされた首が元の体に戻っている。
蘇生呪文? 幻覚?
首領は部下たちの名前を呼んでみる。
「ジャッコ。グリア。ギース……」
倒れていた部下の体が動き出すと「お、お前たち生き返ったのか」と感嘆の声を上げた。
が、すぐさま悲鳴に変わる。
「うああああぁぁ!」
見開いた目には意思はなく、ただ首領の体に這いつくばりながら掴みかかってくる。振り払おうとするが力が強すぎて指一本も剥がすことができない。
「し、死んだまま? 死んだままなのか! て、てめぇ! こいつらに何をした!」
「私は人の最も価値あるものを操るものだ」
ローブの男は頭を垂れた。その姿は泣いているかのように震えていた。
ふと顔を上げたローブの男と首領は目が合った。
「貴様の命を糧とする」