「インソムニア」
齢、四十も過ぎた代々木が暗闇で目を覚ました時、睡眠時間は三時間も経っていなかった。
素面で眠ると、いつも浅く目を覚まし、豆電球の淡い光を頼りに周囲の現実を理解し、今自分がどこにいるのかを察する。
充電器に繋がれているスマートフォンを手に取ると「2:32」と見える。
暗闇でスマホを見ると画面の光で脳が覚醒するから安眠を妨げるとか、寝る前に白湯を飲んで体温を上げると体温一度下がる条件を満たすため入眠がいいとか、深くゆっくり息を吸い込んで徐々に息を出す呼吸が自律神経を整えるとか、波や川の音や528Hzの波長がいいとか、睡眠をサポートするサプリとか、色々試してきたが結局効果が一番あったのは酒だった。
元々酒に強いのが不幸なのか、一日でワインを一本空けるペースで飲む。特にウィスキー、ジン、ウォッカ等アルコール度数40度の酒を一日で半分近く空け、ようやく安心したように眠っていくのだった。
時間は深夜三時になろうとしているのに、代々木は台所の冷蔵庫傍に置いてあるジンのボトルを床から持ち上げる。
近頃は国産ジンの数が随分増えて安価で美味しい物も増えていた。あまりにも不味い酒は飲まず、しかし値段の割には美味しい銘柄をよく選ぶ。
ずらりと並ぶスーパーの酒コーナーで千円前後の酒を物色し時折悩んで立ち尽くしながら一本手に持ち、何度も見ているレジの女性の顔を見ながら支払いを済ませる。
当然、なのか。「あなたなんて知らない」という感じで互いの最低限のやり取りを終わらせ会計をする。
冬も近づき薄手のコートを着ていたため、袋も持たずにコートのポケットにジンを入れて家へと戻る。お守りのようにポケットの中の瓶を手に持ちながら。
深夜コップに注がれたジンは氷も入らず、炭酸で割ることもなく、キャンプ用品のランタンのような曲線を描くグラスに注がれ、今点灯している唯一の豆電球の中で闇に溶け込む影絵か人形のように単純な動作でグラスを口に傾ける。
次の瞬間には光を微かに反射していたグラスの中には液体は残らず、短く何度も呼吸をしながら体内へ染みていくアルコールの感触を目をつむりながら確かめていた。
「次の日には」
佐々木にとっては「眠れてから」が「次の日」にあたるが、もう四時間後には起きなければならない。
当然強い酒など三時から飲めば出勤時には酒が残る。
「眠ることができない」ということが逆に心理的圧力を高め、心拍数を高めていく。
何度も思い描いた夢。
「子供の頃のように全て忘れて眠り、生まれ変わったかのように目覚められたのなら」
ただ眠ることだけで、上手く眠ろうとするだけで苦痛が生じる。ぼんやりと強いアルコールの渦に飲まれていく中で悲しみにも似た諦観が瞳に宿り、次の一杯をグラスに注ぐ。
意識が朦朧としてくるのを幸福に感じる。酔いの多幸感と張り詰めたような神経が切れて、ようやく眠れる気持ちになるのが嬉しいことが重なるのだろう。
佐々木の頬は緩み口角を上げながら、ゆらゆらと頭を振る。
「うっふっふっふっふっ」
眠れそうになる自分に笑いが込み上げてくる。
――眠れる。眠れる。眠れるぞ。
興奮にも似た感情が体中を包み込み、真っ先に布団に大の字になり深呼吸をする。
掛け布団を胸にかけ、疲れ切った子供のように無防備な顔で、目覚めても疲れが取れないまま。
この一連のことをSNSに投稿していた佐々木のデータは五年後の新薬開発のビックデータの一部に役立てられ、そして十二年後に一般化されるバーチャルリアリティーにおける入眠サービスに応用されることを見ることはなかった。
「眠れない苦痛」を共有できる環境などなく、アルコールによるせいか心筋梗塞で齢五十にもならずに亡くなったからである。