ヘドロから純麗な海へ
今ではカモメが飛ぶほどになった。悠々と洞海湾を見下ろすカモメを年老いた男は車椅子に乗り涙を浮かべて眺めている。
「見ろ。カモメが飛んでいるぞ」
声を震わせ、珍しくもないカモメの姿に感涙の声をあげることに、孫の洋太は多少しらけた目を向けていた。それも無理はない。美しい洞海湾しか知らないのだから。
かつて、その場所は「死の海」と言われた。
千九百一年、八幡製鉄所が出来たのを皮切りとして様々な工場が湾一帯にできると汚染された水が湾に垂れ流しになった。
洞海湾は人口の湾で二十世紀になり重化学工業の産業湾口として航路水深十メートル、現在の細長い形になり、二万トン級の船舶の航行が可能となった。
高度成長時代、鉄やその他の金属が大量に必要とされた。洞海湾周辺には金属を扱う工場が多い。
一番汚染された時にはシアンやフェノールが高濃度で検出され船のスクリューが溶けるほどであり、排煙は黒や白のみならず赤など、七色の煙が渦巻いていると言われるほどであった。それを発展の印と見る人もいたほどだった。だが目下には生命の死に絶えた「世界一汚い海」と呼ばれる場所が広がった。
工場が発展していけば生活も潤う。筑豊炭田から石炭が取れるため、時代の波に乗り反映していった。汚染が問題になり工業廃水を規制する法律ができたが、それでも汚染は続き、千九百六十年代の洞海湾は赤や黄色や茶色に染まっていた。
洞海湾の二十世紀百年の歴史は汚染と浄化の歴史だと言っていい。かつて「車海老の宝庫」と呼ばれた海が「死の海」になり、そして公害を克服した「環境モデル」となった。
ちょうど千九百六十五年、新聞報道で洞海湾の悪臭問題が報道されるようになる。水俣病事件が五十六年だったから、市民の意識が変わるまでにもう数年費やすことになる。ましてや工場関係者やその下請けなどの関連企業を含めると、住んでいるほとんどが関係者のようなものだから、工場に対して異を堂々と唱える人間などまずいなかったのだ。
内村政吉は千九百六十三年、北九州市の公害行政機構の最初の公害係四名のうち一人であった。政吉の祖父が漁業を営み、洞海湾の汚染により職を失ったこと、政吉自身も八幡生まれの八幡育ちということから、思い入れも尋常ではなかった。祖父の嘆きを聞かない日はなかったほどだったのだから。
三十年間奔走し、官民一体となった取り組みを推し進めていった政吉は、今の美しい景色があるだけで満足だった。俺たちは努力したとか、昔は汚かったとか、そんなことはどうでもいい。孫の洋太にとって、この景色こそが当たり前であって疑いようもない景色だということが重要なのだ、と考えていた。
数年前にパーキンソン病を患い、足も満足に動かせなくなってきている政吉は、カモメをいつまでも目で追っている。空を見ていても海に反射する光で美しさが充分にわかる。海の匂い、海の風。悪臭と毒物に塗れていたあの頃の景色は、もう二度と現れることはないだろう。
現在でも官民一体となった取り組みがなされているし、北九州市の市民の環境への意識も高い。
政吉はもう老い先短い。思い残すことはない、と清々しい思いで海を見ていた。季節は六月に入っている。
「洋太。帰りに車海老でも買って帰るか。食べたいだけ買っていいぞ」
「本当!? ありがとう! じいちゃん!」
嬉しそうに笑う孫の顔を見て、飛び去ったカモメが後に残した美しい海の景色をまぶたに焼き付け、政吉は目を閉じ涙を流した。
参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2013/12/blog-post_28.html