_檸檬_のある景色

「檸檬」のある景色

 僕はその人の考えていることが、よくわかるような気がする。

 気がするだけで充分かもしれない。どうにも口が悪く、意地も悪く、意固地で、信念があり、物事もハッキリ言ってしまうタイプだから敵も多いことだろうと思っている。アイディアマンであり、実行力もあり、我が強いくせに実は傷つきやすいナイーブな面を持っているが、ブルドーザーのような力強さと突進力で、そのような繊細な一面は一切感じ取ることは出来ない。

 考えていることがよくわかる気がするのは自分もまた、どこかひねくれまくっていて、真っ直ぐなようで何回転もしたねじりの後のような真っ直ぐさだから、真面目に偏屈である人間と気が合うのだろう。文章的には変だけど、これぐらい妙な言い回しの方がピッタリ合っている。

 僕はその人とは偶然出会った。知り合いが絡んでいた人でネット伝いで出会い、まだ一度も現実で出会ったことがない。でも長い年月の中で何をしているのかはSNSで見ていて、色々とこちらから悪態もつきまくっている相手だが、その人にしては珍しく怒らないタイプの相手が自分なのだろうと自負している。

 よく、夢を見る人だと思う。老いてもなお盛んだし、発想が柔らかく面白い。だけど時折見せる素直さが他人へ意地悪さとなって伝わり、まるで孤軍奮闘しているように見えてくる。

 その人の夢とは何だろう。

 一枚の写真と、今までのその人の記事と。

 本屋に行って「八幡では文学は若い者ならば、誰もが熱く語っていた」と店員に語られながら、文学雑誌が主人との馴れ初めだという話を聞いていたその人は、写真サイトを作り、それを北九州を代表する写真サイトまで育て上げたところ、その人の見ているものが透けて見えてくる。

 また、文学の街にしたいのだ。写真というツールを使って、北九州の魅力を全国にアピールし、写真を撮るという視点、その写真を撮ることそのものや、それによって見えてくる違った視点を地元の共有財産にしたいのだ。

 だが、どうにもこうにも、その人がその輝かしい財産を皆で作り上げたらどれほど素晴らしいことか、なんて言っている姿が見えない。当然私利私欲のために動き出したんじゃないか、と言い出す人も出てくるのは当然のことのようにも思える。

 ……溜息が出るほど、対人に関しては不器用な人なのだろう。

 いつか、雑談をしている時に「桜の木の下に死体がって言い出したの誰だっけ」という話になり「梶井基次郎ですよね」と答えると、なんだか嬉しがっていたようだ。嬉しがる理由が僕にはわからなかったけれど、そういう話ができること自体が嬉しいのだろうと思った。

 そしてその人がお洒落な本屋に迷い込み、古民家を改装した立派な本屋だと気がつき、店員のおばあさんがその人の地元の人で話が盛り上がって、ご主人との馴れ初めまで聞いた本屋の名前は「檸檬」だった。

 その「檸檬」とは、梶井基次郎の短編小説で「えたいの知れない不吉な魂が私の心を終始おさえ付けていた」という出だしで始まるものだった。

 最後は何をするかと言うと、お堅いイメージの丸善に入っていて本の色彩をゴチャゴチャに積み上げ最後頂上に檸檬を乗せて帰るのだ。

 変に気が重くなりそうな暗い色合いの分厚い本の上に檸檬という色鮮やかな光を乗せて今までそうであることが当然だったものへ破壊を行う。それは行き詰った芸術性への視点や感性の革命とも言える行為だ。

 何年かぶりに「檸檬」を読み終えると、その人の企みもまた、ここにあるのではないかと思えてくる。

 札幌では、遅咲きの桜が散った。

 アスファルトの上を桃色の花びらが、あたたかな風を受けて走っていく姿は、夏を目の前にした者への、静かな便りのようにも思える。

 北九州は今、どのような景色なのだろう。もうこちらで言う夏なのだろうか。

 写真を一枚一枚めくりながら、撮影者が見た景色と、思ったことを日々考える。悩んだり、調べたりしながら、文章を綴る。

 一度も住んだことも行ったことがなくても、そこへ寄り添い歩いたかのように街を見て行く。それこそ、その人の目論見なのだろうと知る。

 大事にしたいものは沢山ある。でもそれは、言葉にできないほど沢山あるからこそ、口下手になっていくのかもしれないとも感じる。

 そんな思いがあり、「檸檬」を置きたくなる二人だからこそ、その先に黄金の光を見ているのだということを僕はよく知っている。


参考写真:GMTfoto @KitaQ

http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2013/12/blog-post_3.html

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光野朝風
あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。