秘め蛍
将和は努力や実力を中心とした成果主義の場所で生きてきたため宗教的な慣習、初詣すらも行かない人間だったが、前の仕事を突然辞め、北九州に響子と一緒に暮らすようになってからは休みの日を利用して、よく出かけるようになった。
妻の響子は結婚当初から子供が欲しいと願っていたが、十二年間叶わず仕舞いだった。いつか、とは思っていたが多少の焦りもある。しかし一度決めたら変えない夫の性格を思うと強くは伝えられなかった。
ある日「一緒に行こう」と連れて行かれたところは八幡西区にある八剱(やつるぎ)神社だった。祭神はヤマトタケルノミコトであり勝負事の神様として崇められている。
信心深くもない夫が何故神社に来たのか響子はわからなかったが、これから始めるコンサルティング業に対して神様に乞うほどの不安があるのだろうか、いや、そんなはずはない、と心中を察せられずにいた。
響子も勝負と言えば勝負。子供が授かれますよう。私自身の戦いに力を貸してください、と安産のご利益がないにも関わらず願った。
着いた夕暮れ、もうあたりの夕闇が闇に浸されつつある時間に「夜まで待とう」と将和は優しく説いた。
響子も時間といい、夫の言葉といい、意図しているのだと理解していたため、ただ将和の横顔を時折見つめながら待っていた。
あたりは暗くなる。普通なら「もう帰りましょう」となるところだが、響子はただ夫のことを信じていた。黙って待った。
ふっと、めまいのような光りが走る。光は淡く消えては光り、やがて数も増やしていく。
「あ、蛍……」
思わず口にしたが、ああ、これだったのだと響子は夫を愛おしく思った。
鳥居に飾られているしめ縄を描くように飛ぶ蛍がいると思いきや、鳥居を縫うように飛んでいる蛍もいる。気がつけば、数え切れない蛍が鳥居から奥へ抜けたりして河の流れのように飛んでいる。
響子は自分が死んでしまったのではないかと思うほど、ほのかな光へのめり込んでいた。無数の命が流れていく。きっと死への美しき流れなのだと腹の奥、自らの子宮へと落とし込んだ。
その日の夜、響子は激しく将和を求めた。夫となってから、いや、夫婦となる前ですら激しくは求めたことはなかった響子が瞳に露を浮かべて儚い数を散らした。
将和はいつもよりもきつく目を吊り上げながら響子を受け入れた。拒絶を押し殺しているのか、それとも人を刺すような目の夫が仕事という勝負をしている姿なのか。響子にはわからないことばかりだった。今全霊を込めて包み込もうと過去を思い返して慈しもうとしている人間のことが何一つわからないまま、少しずつ増えていく蛍の光りのような愛情と悦楽を共に与え与えられて事果てようとしている。
響子は将和の首筋を舐め上げた。大木の樹液を一滴だけでも体に宿したいと思った衝動的な行為だった。
「おおっ」
と声をあげ、将和は響子の中へと命の欠片を注ぎ込んだ。数少ない、待ちに待った瞬間の熱に響子は打ち震え、体内へ蛍のような無数の光りを流しながら果てた。
夫の仕事は順調に進んでいった。長期出張に到るような仕事は全て断っていながらも、暮らすに充分な収入は入ってきていた。明らかに響子との時間を大事にしながらの仕事であることがわかったから、響子も自分のことを徐々に素直に話すようになっていた。
夫との交わりは月に数度しかないが、それでも一度一度を魂まで強く抱きしめるように噛み締めていった。
妊娠した時期はどう考えても蛍を見た日だった。夫の仕事の立ち上げ時期や始まりは忙しかった。ご利益があったのかもしれない。私は勝負の世界についに入ったのだと勇む気持ちと、以前に感じなかった湧き上がるような、あたたかな気持ちを感じてお腹をさすった。
私自身の勝負。命を繋いでいくこと。長年の願いがようやく叶う。
響子は交わりの事後、夫が静かに寝息を立てるのを見てから目を閉じるようになった。
無数に流れていく、この世界の命の流れすらも意識するように、あの日の蛍を、自らの魂の灯火に変えて。
参考写真:GMTfoto @KitaQ