門司港駅の怪人
まことしやかに、うわさが立った。最初はとても曖昧だったが、徐々に見る者も多くなった。うわさが尾びれをつけるものとは明らかに違う。
門司港駅の駅員の間で、ホームに日に二度、赤いコートの女が立つとのことだった。
何故一乗客のことが噂になったかと言うと、春夏秋冬決まってコートを着ている、と言うのだ。だが夏近い頃と、秋ごろには出てこないのだと言う。
冬や春先、秋の終わりならばコートも気にもならない。だが夏の真っ盛りでも赤いコートを着ているのは不自然すぎる。
鮮やかな赤だったので目立つはずなのだが、全員が見ているわけではない。
改札にいた駅員の中には「真夏にコートなんておかしいだろ。それに真っ赤なら絶対わかる」と言う人もいるほどだ。
うわさも、どうにも的を射ない。
「北を見て悲しそうな目をしている」と言う、うわさもあれば、「南東あたりを見ながら怒っているようだった」と言う、うわさもある。
このうわさに興味を持った男がいた。
怪談話を収集している自称怪談師の太った若者だった。
その若者へインターネットで知り合った人間がうわさを話したため情報収集に来たのだ。
その若者、怪談つながりで妖怪のことも少し調べていた。
海御前。「あまごぜ」とも「うみごぜん」とも言う。北九州にいる有名な妖怪。壇ノ浦の戦いで破れた平教経(たいらののりつね)の妻、母親だと言う説もあるが、海御前が河童の女親分になっており、墓の場所が南東の大積にあると知っていた。
怪談師は他の特徴を聞いてみた。直感だけでは頼りない。
「そう言えば僕が見た時には蟹が足元に落ちてましたね」
と一人だけ言う駅員がいた。
「間違いないですか」
と念を押すと「ううん、たぶん。蟹っぽかったですけど。でも違ったような」
後日写真を持って行き確かめた。通常の蟹は足が十本あり、タラバガニは八本だがあれはヤドカリの仲間で特別だ。だがその蟹は四本だったと言う。足が少ないために駅員も迷った。
しかし間違いなく平家蟹だった。他の足が短く際立って四本延びている。その甲羅は鬼瓦のように怒っているように見える。
壇ノ浦で海に沈んでいった平家の兵士たちが、蟹にその姿を変えたとの逸話から名前がついた。
だが何故門司港駅なのか。
そのヒントは潮流にあった。
関門海峡は潮の流れが激しく変わる。
日本海側へ、瀬戸内海側へと、日に四度も変化する。壇ノ浦の戦いもその潮流の変化のせいで、平家の敗因になったと言われている。
怪談師は想像した。
正室、もしくは母親は潮の流れで大積まで流れた。そして「海御前」と呼ばれ墓を建てられた。
側室は平安時代からいた。だから側室も当然いたであろう。正室だけとは考え難い。きちんとした身分のものであれば墓も建てられたであろう。もしやその側室の一人が敗因を悟った平氏たちの入水の後、潮の流れに素直に従わずどこかの陸地に引っかかり激しい潮流の変化で門司港あたりに辿り着いて、誰にも供養されることなく無念のうちに死体も腐り果てたのではないか、と。
それを怪談師の中で確証付けた例もあった。話から見えたのは、蕎麦の白い花が咲く時期は一切見られない。今蕎麦は二期作になっている。
源氏の色は白。平氏の色は、赤だった。
赤いコートの女、現代に今尚残る怪異か。
では、傍に落ちていた蟹はどうだ。
きっと、その側室を思って傍にいた武者の、たった一人なのであろう、と考えた。
怪談師が、怪異を謎解き、語るようになってからは赤いコートの女は現れることはなかったと言う。
参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2016/04/23.html