「荊棘の道は何処へ」と「傷だらけの手で、私達は」を読んだ感想
この文章では、プロジェクトセカイで開催された「荊棘の道は何処へ」と「傷だらけの手で、私達は」という二つのイベントを通して感じたことを、言葉を飾らず、素直に、そしてなるべくポジティブな言葉で綴りました。だから、非常に肯定的な立場に立って書かれており、その点に注意してお読みいただければ幸いです。
諸般の事情により、当初公開する予定だった内容から、文章を大幅に削除しました。だから、ここに書かれていることが、私の感じていることの全てではありません、ということだけ注釈として残させてください。
まず、今回の「荊棘の道は何処へ」と「傷だらけの手で私達は」、二つのイベントの一連の流れについて。
私は一読者として、そこで描かれたこと、そして、二つのイベントに跨って用いられた演出の数々を心から賞賛したい、そんな風に思っています。とても面白かったな、と思っています。新しいことをやろうとしたそのチャレンジ精神に、大きな拍手を送りたいなと思っています。
では、何が胸を熱くさせてくれたのか?
それは、提供されたものが、「ソーシャルゲームにしかできない新しい表現の模索」であり、「他には無い何かを生み出したいという純粋なクリエイティヴへの希求」だと、そんな風に感じているからです。
世の中にはストーリーを語るための媒体がたくさんあります。小説、映画、ドラマ、演劇。それぞれにしかできない表現のカタチがあり、そのカタチでしか打てない人の心というものがあります。
その中でもソシャゲのストーリーというのはとても表現の制約が多い媒体です。動きを作れないから視覚的な表現はごく限られたものしか許されず、小説のような地の文も存在しないため、ストーリーは会話を通してでしか進めることができません。売上のことも気にせねばならないし、全体との調整も不可欠です。そのために、出せるキャラクターやその尺にある程度の制限もかかってきます。おまけに、たくさんのストーリーが同時並行で進むせいで、描き方はどうしてもブツ切れになる。起承転結を流れで読んで欲しくても、起と承の間に、承と転の間に、転と結の間に空白が生じてしまう。例えばシリアスなストーリーであれば、その狭間で読者は苦しむことになる。そしてその空白は、時として何ヶ月にも、何年にも及んでしまいます。
だからどうしても「深い表現」を用いるのが難しい。それで、楽曲であったり、カードイラストであったり、そういったものでストーリーを補強してきたのだと思います。(楽曲やイラストはストーリーを補強するために存在するという意味ではありません。これらは、それぞれがメインであり、互いに補強しあう存在であることを言い添えておきます)
今回は、そうした表現の制約を逆手にとった、新しい試みであったように思います。アニメーションとは違う、ノベルゲームとも少し異なる、そういう、このゲームでしか表現できない新しいカタチ。とても面白いなぁと思いました。
瑞希バナーと絵名バナーをひとつづきの物語として語ったこと、そのなかで、ストーリーと親和性の高い演出を用いたこと、二つのバナー間にできあがった「幕間」で、エリア会話やボイスと連携させたこと、そういった新たな試み全てが、うまい具合にリンクしあっている。実際それを面白く感じるかの賛否はあると思いますが、評判はどうあれ、少なくとも、筋は通っている。そう思います。
例えば。「荊棘の道は何処へ」の最終話。
ただの立ち絵が何枚か並んで物語が進行する、そんな「変化のない絵面」に慣れきっている私たちは、「向き合えなくてごめん」そういって「視覚的に」背を向ける瑞希を見て、どきりとする。アニメで背を向けるモーションを入れるよりも何倍も、読者は瑞希の背中を目に焼き付けることになります。

そしてこの演出が、「傷だらけの手で、私達は」にもきちんと引き継がれています。今度はその後ろ姿を用いて、「二人が向かい合う」画面を描き出した。目に焼きついた瑞希の後ろ姿は、「瑞希を見つめる絵名」が加わることによって、違う意味を持つようになる。ようやく向き合うことができた二人を、より立体的に表現しています。「なんだか、二人がそこに実際にいるような気がする」、そんな気持ちにさせてくれます。

「荊棘の道は何処へ」の最終話の冒頭で登場したポップアップは、この物語を「他人事にはさせない」工夫がこらされていました(Xの固定ポストのnoteに詳細が書いてあるため、ご興味あればそちらをご参照ください)が、「傷だらけの手で私達は」ではさらに踏み込んで、今度は瑞希視点で背景の絵が動くというギミックが登場しました。マジョリティには共感しづらい瑞希のつらさを、読者が「自分ごと」として感じられるように工夫がなされています。

こうして、読み手の視点を登場人物に重ねさせ、物語の中に引き込む手法は、徹頭徹尾、一貫して行われています。描かれているのは、瑞希の視点だけではありません。しっかりと絵名の視点も描かれています。
「傷だらけの手で私達は」の最終話です。絵名の決死の言葉を受け止めて、ようやく一緒にいたいと泣くことができた瑞希。その瑞希を見つめる、「あなた」。あなたの目が、実は、絵名の視点になっている。最後のスチルが出る瞬間の演出を、もう一度、見てみてください。

そう、絵名は、目を閉じているんです。
特訓前のスチルを見ただけでは、絵名の表情はよくわからなかった。しかし、物語を紐解いた時、彼女の目は閉じられていることがわかった。
そして、すごいなと思ったのは、これだけで終わりでなかったことです。
上で書いたことを念頭において、ぜひ、イベント終了後に解禁となった新曲「余花にみとれて」(2Dフル)を聴いてみてください。できれば、目を閉じて。
瑞希が感じていた苦しさも、絵名が差し出すことのできた優しさも、なんだかリアルな質感で、胸に迫ってくると思いませんか。
今までずっと、「見た目」や「他者からの評価」に捉われ続けた二人が、目を閉じて、互いの手を握り合っている。相手のてのひらの温度と心臓の音だけを感じている。走り回って、声を張り上げて泣いたからこそ上がった体温と脈拍。その、切ないほどのあたたかさ。
絵名にとって瑞希は、新作のブランドに真っ先にとびつくような、とびきりオシャレな友人であるけれど。そして、瑞希自身も着飾ることに、自分らしさを感じているはずだけれど。たぶんそんな瑞希のことを、絵名も大切に思っているはずだけれど。でも、それだけでは瑞希の苦しさに、触れられなかったから。
だから、目を瞑って、相手に触れたんだと思います。
そんな風に、瑞希の「表面」を大切にしながら、瑞希の「内側」に手を伸ばして、それで初めて本当に、瑞希の苦しさに触れることができたんだと思います。
目を閉じて、手を握る。
その時に贈られるのは、「私は、私だけは、あなたを見た目でジャッジしたりはしない」「どんなあなたでも、ただそばにいる」そういう、瑞希にとって最大にあたたかなメッセージではないでしょうか。
大切なのは、「私はあなたを見た目で判断したりしない」ということを、言葉では伝えなかったということなんです。言葉にしたとたん、そこに意味が生まれてしまうから。そしてその意味が、瑞希を苦しめてしまうことを、多分ようやく絵名にも、理解できたから。
「悩みを話してほしい」という絵名が元来持ち合わせている優しさの裏側にあるエゴも。
「それでも待ってる」という初めて持つことができた相手に寄り添う姿勢も。
伝えた時点で、結局は、瑞希を苦しめていたから。そのことにようやく、気づいたから。
もちろん、これは絵名が一度引っ込めたエゴをもう一度瑞希にぶつける話ではあるんだけど。
でも、待ち続けたからこそ、自分も傷を負ったからこそ、気づけたものがあったのじゃないかなぁと、私は思っています。
そしてそれは、絵名がこのストーリーのなかで見つけられた新しい種類の優しさだったんじゃないかって。
瑞希に必要だったもの、そして大袈裟にいえば、いまの社会に必要なものは、たぶん絵名が見つけることのできた優しさのようなものなのだろうなぁと、思っています。
話が少し脱線してしまいましたが。
イベント開始前の「予告」での遠景(スチル)
↓
イベント開催中の「本編」での向き合う描写
↓
イベント終了後の「新曲」での、音と温度
このように、ストーリーそのものだけでなく、イベントを通して、どんどん瑞希の心の真ん中に近づいていけるような仕掛けになっている。瑞希を追いかけた絵名を、擬似体験できるようになっている。本当に緻密に考えられている、と思いました。
そして、エリア会話や瑞希(や絵名、ミク)のボイスについて。これも、ソシャゲでしか出来ない表現の一形態だと思います。
上の方でも説明しましたが、バナーを跨いでストーリーを紡ぐ時、どうしても「空白期間」ができてしまいます。エリア会話やボイスは、そのデメリットを逆手にとったわけです。
逆手にとった時に持てる武器はなにか。それは、「時間」です。「時間」に勝る劇薬は存在しない。ストーリーの中に、読み手が過ごした現実の時間そのものをとりこめたら。そんな絵空事を、このゲームでは現実にできたわけです。
次のストーリーの幕があがるまでの間で、読者はずっと、つらい思いをしている瑞希を見せられ続ける。我々の日常に、時間をかけて、ゆっくりと、瑞希の苦しみが染み込んでくる。こっちもだんだん、瑞希みたいにつらくなってくる。
その「逃れられない時間」を、読者は半ば強制的に体感することになる。けれど、だからこそ。瑞希が掬い上げられた瞬間に、見ている方も救われた気持ちになるんです。解放されたような心地がする。俗っぽい言い方をすれば、感動にバフをかけられるわけです。
(↓ここは不可欠な箇所なので、少しだけ批判的な話が入ります)
そうはいっても、こうしたギミックをネガティブな感情を助長させるために使用するのは、やはり危険なことであったかなとは、思っています。
稚拙な例えで恐縮ですが、例えば「モモジャンが念願のドーム公演をやる」話を、バナー跨ぎでやるとする。一つ目のバナーが終わった後、エリア会話に「ドーム前」みたいな新エリアが登場する。そこには他ユニットのキャラクターも出てくる。そしてみんな、「モモジャンのライブ楽しみだね」みたいな会話をする。といったような。
あくまで例えばの話なので稚拙なアイディアなのですが。こういうポジティブな内容であれば、他のユニットを推している人からしても推しの会話が増えて嬉しいし、モモジャン推しも、プロジェクト全体がユニットのストーリーを盛り立ててくれてるみたいで嬉しいんじゃないかな。そういう、ポジティブな感情を増幅させる装置として、今後はぜひ使ってほしいなと思っています。
このプロジェクトの姿勢は一貫して「描き
たいものを描く」ということなのだと思います。ややもすればユーザーが置いてけぼりになっていやしないかと思わされても、それでも。私は、その姿勢をとても素晴らしいと思っている。正直、私はもう、このゲームについていけないかもしれない、とは思っている。それでも、自分がこのゲームを辞めてしまったとしても、ぜひこの姿勢を貫いてほしいなぁと思っています。
なぜなら、私がこのプロジェクトセカイというコンテンツに惹かれた理由の大きな一つに、クリエイターファーストの姿勢があるから。「そんなことねーよ」という反論が山のように降ってきそうですが、私から見ると、クリエイターに対する扱いが本当に本当に酷い日本という国のエンタメコンテンツにおいて、個々のクリエイターが表現したいものをこれほどまでに尊重しているプロジェクトは、あまり見ないな、という風に思っています。
それは恐らく、ボーカロイドという巨大な文化が下敷きにあるからなのでしょう。私はどちらかというと、製作陣と似たような年齢の人間だと思いますが。みなさん、恐らくボカロの黎明期を経験した人たちなのでしょう。あの時のニコニコ動画を知っている人たちが作ってるのだろうなと、度々思わされるんですよね。素人のボカロPが曲をあげて、2ちゃんのカラオケ板出身の歌い手がカバーし、絵師がはりきってその曲にMVをつけたり、かと思えば踊り手がでてきたり、神MAD職人が突然現れて話題を掻っ攫っていったりする、混沌としていて、可笑しくて、著作権も倫理観もしっちゃかめっちゃかで、けれど「作ること」の喜びに溢れていたあの時代。まちがいなく、豊穣な日本のオタクカルチャーを下支えしてきた大きな礎のひとつ。
あの景色を、いまの若い人たちにどうか見せてあげて。と、そんなふうに願い続けています。
今回のストーリーが、いったい誰の話であったのかという話は、ここではしないのですけれど。
私が、このストーリーを読み終わって最初に心配になったのは、瑞希を推している方々のことでした。
なぜ心配になったかというと、読み終わった時、「この話が瑞希バナーでなくてよかったのかな」と思ったからです。この話は、瑞希推しのみんなこそ、ずっと待っていた内容のものではないのかな。
「自分が瑞希推しだったら、瑞希バナーで全力イベランしたくなるような内容だな」と思ったからだし。
瑞希がニーゴに戻れるかどうかが、絵名の視点で描かれ、ある意味で「絵名次第」になってしまった(もちろん最後に選んだのは瑞希であったけれど、選ばせてくれたのは絵名であったという見方もできるので)ことに、どんな風に感じただろうかと、心配になったからだし。
関係性を描くこと自体は悪いことではないです。ひとつのキャラクターを映し出すとき、他人との関わり合いのなかでしか描けないものがあるというのも確かです。
それでも、ニーゴのメンバーそれぞれが抱えている問題は、彼女たちが死ぬまでずっと付き合っていかなくてはいけない種類のものだから。だからこそ、そのストーリーの一丁目一番地では、その本人の成長にしっかり焦点があたっていてほしい。自分で苦しんで見つけた答えで、最後は自分で乗り越える、そういう描き方をしてほしい。ずっと応援してきたみんなが、心から声援を送れる座組にしてほしいなと、願っています。
でも、まだ瑞希のストーリーも途中経過だから。これからきっと、描かれるよね?
いまこの文章を書いていて、ふと思ったけれど、このお話の最後が絵名視点になっているのは、ここを瑞希の成長の終着駅にはしたくなかったからなのかな、と思いました。これからの描き方が楽しみです。
瑞希の痛みに、我ごとのように共感していたみんな。そういった人たちが、今回のストーリーを心から楽しめていたら、それ以上はないなと思っています。ねぇ、みんな、どう思った?
また、絵名をずっと応援してきた立場でひとつ、どうしても肯定的に語りたいことがあります。
それは、絵名が絵名らしく描かれていたことに対する感謝を、忘れたくないなということです。
ソシャゲは、一人の人間がキャラクターを造形しているわけじゃない。イラストレーターが、ライターが、ディレクターが、声優が、そのほか裏方にいるたくさんの人たちが、少しずつ技術を持ち寄ってキャラクターを描き出しています。
だから、どうしたってブレることもあるし、矛盾だって出てきてしまう。それが当たり前であるなかで、絵名のキャラクター像は、ちょっと唸るくらい一貫性がある。セリフのひとつひとつに魂がある。実存を感じてしまうほどの息吹を、キャラクターに与え続けてくれるというのは、とても稀有なことだと思います。それは、とても深い愛によるものだと思います。
私は、それが何よりも一番嬉しい。絵名が絵名らしく描かれることは、他の何を差し置いても、私にとっては大切なことです。ファンの本懐だとすら思っています。だから、絵名が絵名たる由縁のようなものが見られた今回のストーリーが、とても嬉しかった。
今回のストーリーを作ってくださったみなさんに、関わった人たち全てに、心から御礼を言いたいです。ありがとう。
※実は、私が本当に一番感動した箇所はこの記事には書いていません。本当は、書くつもりだったのだけど。でも、ここでは絶対に書かないと決めたネガティブな感情と一緒に、それも自分だけのものとして胸の内にしまっておこうと思います。けれど、彼女の決断と言葉の数々に、とても救われたんだということは、書いておきたくて。東雲絵名ちゃん、ありがとう。