泡沫 1-3
「わたし、彼がいるんですけどね」
氷がたっぷり入ったグラスにサングリアを注ぐと、彼女は唐突に、静かに語り始めた。
「例の、長年付き合っている彼ですね」
「はい」グラスを置く。が、料理には手を伸ばさない。「例の、結婚してくれない彼って人です。4年くらいなんですけど。会社の人は結婚してくれない彼だと思ってるけど、結婚の話は今までにも何回も出たし、親にも紹介し合っているんです」
「じゃあ、そろそろ結婚されるんですか」
「いえ、それが、そうでもないんです。…うまく言えないんですけど、結婚したらこういう家に住もうとか、こういう家族にしたいねとか、そういう話題は自然に出るんです。それが具体的な行動につながらないんです」
なるほど、と頷いた。「きっかけがあれば、ってことですか」
「どうなんでしょう…なんだか、行動にうつそうとするたびに、わからなくなるんです。結婚というもの、そのものが」彼女は首をかしげた。「結婚って、本当に極端なことを言ったら…婚姻届を出すってだけですよね」
「本当に極端だな」思わず笑った。「一緒に生活をするとか、人生をともにするってことじゃないですか」
「それは結婚しなくてもできますよね?」
「事実婚ってことですか」
「死ぬまで添い遂げることって、ただ一緒に居続ければできるはずのことだって…そう思ってしまうんです。それが結婚かどうかは、婚姻届を出しているかいないかの違いにすぎないと思うんです」
「そう言えば、そうですね」普通に同意した。「籍を入れていなくたって、周りは気付かないでしょうね。お互いが、夫婦という法的関係に頼らなくても一生添い遂げられる自信を持って一緒にいるなら、入籍しなくてもいいんじゃないですか」
「そう、たとえば明日、会社でわたしが『入籍しました』って言っても、部署の人には何も疑われることなく、受け止められると思うんです。入籍していようがしていまいが、見た目上は何も変わらないんだから。紙切れ1枚、出されたかどうかもわからない、そんなものなのに」
彼女は目を閉じて眉をひそめていた。不満なのではなく、本当に理解が出来ないという表情だ。
「一生、一緒に居続けることが何より大切だと思うんです。なのに、恋人がいるっていうだけで、すぐに結婚結婚って急かしてくる人たちを見てると、書類1枚を出すだけのことが、添い遂げることよりも重要だって思われてる気がして…なんだか、一度そう感じてしまったら、婚姻届を見るのも嫌になってしまって。もう、とっくに用意しているんです。名前は、ふたりともまだ書いていないんですけど」
ひとつ、確かめたいことがあった。
「気持ちは、すごくわかります。こないだの飲み会みたいに、皆の前で言われるのもストレスだろうなと思っていたので、ああいうのが積み重なるとすごく疲れるでしょうね」彼女に集中砲火を浴びせる女性陣は確かに恐怖だった。「ただ、周りの声に疲れているからなんでしょうか?その、婚姻届を出すのをためらっている理由は」
彼女は、目を見張るように力を込めてすこしうつむいた。怒っているというより、質問の意味を吟味しているような顔だ。
「周りの声が、後押しになる人もいます。もし逆に、周りから急かされていなかったとしたら、どうですか。想像するのは難しいかもしれませんが」
「そうですね…」
「添い遂げることの方が大事だっていう考え、素敵だなと思います。その通りですよね。だからこそ、書類を出すことについての考え方は、紙一重だと思うんです」書類だけにね、と言おうとしたがやめた。「たかが書類1枚出すだけだから、周りもうるさいしさっさと出してしまおう、大事なのは生活のほうだ、という考え方だってあります。そこをあえて、出さなくたって構わないという方に思考が向いているわけですよね。周りからの声以外に、何か理由があるんじゃないかな」
「あると…思います」彼女は、答えをためらいつつも言った。「すぐには分からないですけど、そう言われると、ある気がします」
「今、考えて言わなくてもいいですよ、自分はカウンセラーじゃないから」手を振りながら笑って見せた。「結婚するってことを、結婚式を挙げることや新居を構えることだとイメージしてるような人も多いっていうのに、添い遂げることだって考えてるなんて、偉いなぁ。大したもんだと思いますよ。それでいいんです。そのままでいいですよ」
「本当ですか」彼女はまだ不安げだった。
「全く問題ないと思います」
「職場で結婚結婚って言われ続けるのは、仕方ないって諦めた方がいいんですかね」
「でもそれすごくストレスですよね。むしろ問題は、彼との今後よりもランチでの話題だったりしませんか」
「…そうなんです。ランチタイムのストレスさえなくなれば、今の悩みは大分解決する気がします」
「それなら、たまにはひとりでランチに行くのもいいし、その話題が出そうになったとき用に、あらかじめ別の話題を準備しておくのもいいかも。そうやって話題をそらされているうちに、みんなもなんとなく、話題に出されたくないのかなって察してくれますよ。大人ですから」
そこは信じていいですよ、と言って、デキャンタを手に取った。彼女のグラスはあまり減っておらず、むしろ氷が解けてかさが増えているようにも見えたが、こぼれないようにすこしだけ注いだ。彼女はぺこり、と頭を下げてから、ひとくち飲んで、ばたっと音を立てて背もたれに倒れ込んだ。
「なんだか、すこし気が楽になりました。思い切って相談して良かった」
「そりゃ、良かった」
「すっごく緊張してたんです、つばささんと一対一で話したことなかったし。あぁでも、良かった。また相談に乗ってもらってもいいですか」
「もちろん」よく考えたら、ろくに話したことのない相手に、ここまで込み入った内容を相談しようと壁を乗り越えてきた彼女も大したものだ。それだけ、思いつめていたということか。
その後はお互いに、休日の過ごし方や今までに行った旅行の話や、他愛のない話題をとりとめもなく話した。
バリ島にはどちらも行ったことがあり、数少ない共通点として盛り上がりを見せたが、同じ旅行先なのに彼女と自分の過ごし方に激しい解離があり、そのことにも驚きふたりで笑った。バルコニーで海に沈む大きな夕日を見ながら、花やら小さい傘やらが刺さったスカイブルーのカクテルを飲んだ彼女と、ちょうど良い皿がないからと言って、段ボール箱に直接ナシゴレンを入れてサーブされていた自分。
「そんなの食べるの、絶対無理です」
「ちゃんと新しい段ボールでしたよ」
「そういう問題じゃないです」
「それでも旅行中で一番美味かったのが、あの段ボールナシゴレンなんですよ」
「信じられない!」
「いや、これがまたうまい具合に段ボールが油を吸ってくれていてね。パラパラで絶品でしたよ」
「つばささんって本当に変わってますよね」
酔いのせいだけではない気安さで彼女が言った。この言葉はもう、あまりに言われ慣れ過ぎていて、もはや肯定的にも、否定的にも捉えられなくなっている。
「そりゃ、どうも」
結婚をしないカップルや事実婚は、なぜそのかたちを選ぶのだろうか。
事実婚状態の中には、経済状況やどちらかの家庭の事情ではなく、そもそも結婚という制度自体を嫌悪するために法制婚を選ばないカップルも少なからずいる。戸籍制度に対する反発、夫婦同姓に対する反発、などが主な理由のようだ。
また、例えばセクシャルマイノリティに属する「アセクシャル」など、恋愛感情をもともと持ち合わせない人々もまた、結婚に強い違和感を感じる人が多いという。恋愛ではなく友愛、人間愛をもってパートナー関係を持ちたいという思いが、結婚することで「男女関係」を強調されてしまうことを嫌がることもあるという。
幸せになるため、生活や精神を安定させるためにつくられた制度であるはずなのに、それが逆に特定の人々にとっては窮屈で幸せを阻害しかねないとは、なんとも皮肉な話だ。
恋愛だろうが友愛だろうが愛は愛であり、同性だろうが異性だろうが、また同姓だろうが別姓だろうが、パートナーはパートナーだ。実態にこだわればこだわるほど、性質上どうしても慣習的なある種の決めつけを孕みがちな「法制度」と、自分自身の思いとの乖離が許せなくなるのかもしれない。
実際のところ、彼女が何を思い、何を抱えて、結婚制度に疑問を持ったのかはわからないし、自分は知るつもりもなかった。彼女も満足していたようだし、年長者のアドバイスとしてはまずまずの上出来だったのでは、と自画自賛していた。
だが、やはり自分は甘かったのだ。女性の輪の中に入る、ということについてあまりに無知だった。経験がなさすぎたのだ。輪というものは、大勢の人と関わり形成するものではない。すこし触れただけで、その深淵に巻き込まれていくものなのだ。個人とは、輪そのものを形成する輪郭の一部ではなく、もともとそこにある輪という概念に引きずり込まれるだけの塵なのだ。
それに気づかされるには、多少の傷が必要だった。
(つづく)
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