孑孑日記㉜ 語られぬ第1弾

 ウルトラマン展を見に行った。ウルトラマンがしっかり取りあげられているだけで喜ぶチョロい人間なので、ウキウキしながら回った。物販ではイカルス星人のTシャツを買った。何だか間抜けで、実に良すぎたからだ。
 それはそれとして、ウルトラマンが取りあげられる際に、ほとんど常にウルトラQが外されるのには釈然としない。僕の認識では、ウルトラマンは「ウルトラマンシリーズ」ではなく「ウルトラシリーズ」だし、そもそものウルトラマンシリーズの素体は、ウルトラQの時点でほぼ完成していた。だからこれを外すのはわけがわからない。むしろ、ウルトラシリーズの本質というか核というか真髄というのは、ウルトラQにある。みうらじゅんも言うように、ウルトラシリーズの主役はウルトラマンではなく怪獣なのである。
 エンタメにおいては、ヒーローの存在が欠かせない。魅力的な悪役やライバルも重要だが、かれかとてヒーローを立てるための装置にほかならない。重松清は言っていた。
 ウルトラマンもこの構図から逃れることはできない。現在に至る世間一般の見方は、まさにウルトラマンが引き立てられるべき「ヒーロー」であり、怪獣たちはそれを際立たせる「魅力的な敵・ライバル」なのだ。
 しかしウルトラシリーズの始まりはウルトラQだ。スーパーヒーローは登場せず、中心にはいつも怪獣がいた。またしてもみうらじゅんだが彼はウルトラシリーズの主役は怪獣という。かれらが魅力的だから好きだし、ウルトラマンも神秘的で、遠い存在だから惹かれた、そんなようなことを話していた気がする。ウルトラマンは怪獣と戦い、怪獣を見せるためのアンチエネミーのように当初は機能していた。同時にウルトラマン自身もカッコよく僕らを守ってくれたから、かれ自身も魅力的なヒーローとなることができていた。昭和1期の3番組が特に高い評価を得ているのは、こういう理由があったためでもある、と僕は感じる。
 しかし時が経つにつれて、ヒーローとしてのウルトラマンが前に出てきて、本来の中心たる怪獣がヒーローエンタメの背景へと後退していった。結果としてウルトラマンはエンタメ特撮として生き延びることができているが、しかし昭和1期のような、エポックメイキングな作品ではなくなってしまった。必然ではあるが、しかしあまりに寂しく思えてくる。いまでも1話くらいは挟まるだけいいのだろうか。とはいえ、ヒーローの苦悩や友情のもつれといった、理解や感情移入がしやすいが卑近さを帯びるものが軸になる作品には、いささか物足りなさが募るのである。

(2023.9.1)

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