孑孑日記36 賛美的否定について ―『毛皮を着たヴィーナス』訳者解説に着想を得て―
ザッハー=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』の解説にて、訳者が『新世紀エヴァンゲリオン』などの、社会と距離のあった青少年がみんなと同じ価値観・場所をもち幸福を得ていく作品に対する不満を表明していた。まさかマゾヒズム文学の解説でエヴァへの文句が見られるとは思ってもみなかったが、思い返してみれば多くのエンタメ作品において、こういう図式は用いられていた。典拠にあたっていないので大きな声では言えないが、『電車男』(もちろん読んだことはない)はオタク賛美ではなくむしろ逆、という説をどこかで見た。オタクだった主人公が恋愛や人との付き合いを通してオタクであることを捨て社会に適応していくから、オタクは捨てられるものとして表象されている、というのがその理由だとかなんとか、そんな感じ。あるいは、ガリ勉が勉強を放棄して、主人公たちと一緒にバカ騒ぎをする、マンガ等でよくある描写も、主人公たちという「多くの読者に共感される人たち=多数派の社会」に、ガリ勉=主人公たちというぼくらとはちがう人が適応して飛び込んでくるという図式であるから、まったく同じ構造を有しているといえる。
ここから導き出せる結論が何なのかよくわからないが、少なくともあるものがメインで取り上げられたとしても、それが肯定的な意味を帯びているとは限らない。むしろ、それが否定される要素として取り上げられていることは非常に頻繁にあるのである。そして悪いことに、そこで取り上げられた普段注目されない要素をもつ、あるいは好む人たちは、取り上げられた事実それ自体に喜んでしまう。だから構造としては否定されてしまっているにも関わらず、そのコンテンツを賛美してしまうのだ。
(2023.9.7)