日記46 いとうせいこう『想像ラジオ』について、以前目を通した本に書いてあったことについて

 昨日、いとうせいこう『想像ラジオ』せんぶに目を通した。解説やカバーにもある通り、死者と、かれら側にいない生者はいかにして関係をもてばよいか、それを想像イマジネーションを鍵に綴った、頓に感動的な作品である。いや、小説の読者体験として非常に良かった。感動的だし、しっかり作者なりの答えを出して、小説をきちんと終わらせた。会話だけで1章を書き切るなど、高い実力も示される。
 ようやくはそこそこにして、以前『想像ラジオ』についてページを割いていた本に目を通した。高橋源一郎と斎藤美奈子による、『この30年の小説、ぜんぶ』である。いつ読んだんだがもう忘れてしまったが、「震災後」の文学の代表として、この『想像ラジオ』が取りあげられていた。詳細は忘れた。しかし唯一覚えていて、実際に『想像ラジオ』を見てその妥当性を確かめたことがある。「エクスキューズ(言い訳)を用意してしまっている」とかそんな旨のことだ。
 いとうせいこうは、テレビ業界にいたこともある。そのせいかは知らないが、確かに予想される反論を用意し、それを認めつつ自分の答えを示す。いや、一般には、そうするのが処世的に適切なのだ。だが、小説だとやはりそうはならないらしい。
 第二章、作家Sら5名が、被災地へのボランティアに行ったヴァンに乗っている。その車内で、若者ふたりが死者のことを想像し、生者が語ることの是非について議論する。このパートは、作者が悩んだ末に、第四章の回答を出した過程を開陳するために欠かせない。作品(登場人物じゃないよ)の内面描写としてこの章は必要だったと思われる。
 だが、それを作者の分身らしいSに直接にはやらせず、同乗するふたりの若者に任せ、あとでSがそのふたりのいないところで考えを述べるという形式は、事実エクスキューズを用意しすぎている、という『この30年の小説、ぜんぶ』における指摘をされても仕方がない、むしろされて当然だと思うのである。人によってはここを批判対象とするかもしれない。それもまた免れえないことではある。
 だがだとしても、死者と生者の交流可能性を考えた感動的な小説という価値はそのままである。先の指摘はやはり引っかかるところではあるが、やはりいい小説だったと言えるだろう。

(2023.9.22)

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