【観劇感想】クラアク芸術堂「汚姉妹」
今月は札幌演劇シーズン2020冬が開かれています。シーズンごとに1本観られたらいいな、くらいで観劇していましたが、なんと今シーズンは2本も観ることに。強く「観たいなぁ」と思う意欲作が揃っていたので。2本観たのに、スタンプラリーのカード(ハガキ?)、もらえなかったけど・・・・・・
2本観たうち、まずは昨日観たばかりの、クラアク芸術堂「汚姉妹」の感想を書いてみようと思います。
Twitterでも多少呟いたので重複する部分もありますが、ざっと書いていきます。今日で公演は終わったのでネタバレありです。
・こんなに無心でのめり込んだのは初めて
いつも観劇に出かけると、腕時計をチラチラ見ていた。どれくらい時間が経過したか。目薬はいつさすか。トイレは?帰りの地下鉄は?いろんなことが気になる。細かいことが気になる、いつもちゃんとしていないと気が済まない、完璧主義の私である。
しかし「汚姉妹」はただの一度も腕時計を見なかった、見ようともしなかった。(初めにめど時間が言われていたのもあるが)それだけのめり込んでいた、没頭していたということ。息もつかせぬとはまさにこのことだった。勢いや迫力があって、最後には喉が渇いたともあんまり思わなくなっていた。
・タイトルと内容のミスマッチ気味
あまり「汚姉妹」じゃなかったな。なんて気もしている。姉=主人公ハルと悪い男=ヤナギの物語が軸なので、全体的にちょっと妹の存在が弱い。
・結局二人とも呪われていた、正反対のようで同じだった
お金が全ての悪者ヤナギと、泣いちゃダメで笑顔が全てのハル。ハルが正義でヤナギが悪なのだが、結局二人とも命を落としてしまう。本当の自分で生きられないのは同じ。それが他人を縛るか自分を縛るかの違いで人生が正反対に展開しているのだが(他人を縛っては、いけないね)、最後の大爆発で「ああ、やっぱり、我慢してたんだなぁ・・・」ってなった。最後までやり返さずに「泣いちゃダメ」でニコニコしたまま死んだらまた違っていたんだけど、やり返して復讐した時点で二人は「同じ」になった。本質が明るみに出た。こうなるから我慢は良くないんだよ。いつもニコニコしてる人は怖いなと日頃から感じてきたけれど、やっぱりだよね。でも、金の亡者になって子どもたちを縛って毒親になったら、おしまいだよね。
・脇田さんは素晴らしい。ていうかみんなすばらしい!
脇田唯さんが大学のサークルの後輩なんで、久しぶりに活躍する様子を見たい!と思い立って急に参戦を決めたこの芝居。もちろん彼女がずっと活動していることは知っていたし何度か見ていたが、なぜだかこのタイミングで不意に、観たくなったのだ。なんでかは本当にわからない。神の采配としか。
で、観に行って、やっぱり彼女はとても綺麗で演技も上手で期待に違わず素晴らしかった。昔より大人になっててそれでさらに魅力的になっていた。でもそれだけで終わらず、周りのみんなも負けずに素晴らしかったし、綺麗だったし、輝いていた。一人残らず全員素晴らしかった、ハイレベルな役者だけを厳選して置いている印象で良かった。
札幌演劇シーズンを観に行って役者のレベルが低いと感じることはほぼない。札幌の演劇シーン、役者の質が高いのかも。
・ハルを見ていると希望も絶望もあった
主人公・ハルは、久々に見た強烈な主人公だった。まあ類型的といえば類型的なのだけど。真っ先に連想したのは、スマホゲーム「ガールズバンドパーティ」のこころ。要は論理が破綻したレベルの、実在不能レベルの超然としたポジティブ。第一印象は「うわぁ、無理してる系な主人公だな。こういう子苦手だわ・・・・・・」だった、反感を持った。私はつらい気持ちや苦しみが我慢できないウルトラ自分に素直ネガティブ人間なので。しかしだんだん情がわいてきたのか応援したい気持ちみたいなものが出てきた。「泣いちゃダメ」の力(魔法)でヤナギを倒したときは爽快感さえあった。
しかし、やはりハルも最後には破綻していった。超人のまま去ることを許されなかった。脚本家によってはハルを超人のまま存在させて登場人物全員と観客をひざまづかせ、ウルトラポジティブな世界をぶち込むのだろうけど、それをせず代償のように本音や現実を吐かせたのは私の好みだった。
やっぱ希望やきれいごとだけでは生きられないというラストに共感。しかしヤナギみたく闇落ちしすぎてもまた、見てられないよね。
・明るいのと無理しないのとマイナスの欲望に正直なのとどれが正しいのか
書店で、よく見る光景である。「いつも明るく!引き寄せ!」みたいなことを説いてる自己啓発本が平積みになっている横で、「無理しないで。弱い自分を受け入れて。少し休んで」的な心の癒やし本が平積みになっている。少し離れたところにある文芸書では人を殺しまくるサスペンスやミステリー小説がそこかしこにある。
今って、こういう時代だなぁ・・・・・・と思って嫌になる。過剰な明るさやポジティブさを求められる。本音としてはみんな疲れてる。強い怒りや憎しみや破壊衝動を腹の底で抱えている。それを出すことを許されず、スーパーポジティブに・無難に意見を出すことを求められる、SNS文化に代表される風潮。
正解はないけれど、明るすぎるのって、今の私にとって、かなり、しんどい。疲れる。明るく振る舞いまくった時代もあった。大学生の頃、躁状態を演じ抜いてきた。そして破綻した。
どれが正しいんだろ?難しいよね。そんな今が描けていたように思ったのは私だけだろうか。たぶん脚本家にはその意図はなかっただろうが。
・自分のことを本気で幸せにしたいと改めて思った
ハルも、ヤナギも、ほかの登場人物も、過去に親などからかけられた呪いの言葉に囚われて、そこから逃げられず(ハルは魔法をもらった部分も大きかったけど)多くの人物が身を滅ぼしていった。
私もまた、毒親気味の両親からたくさんの呪いの言葉をかけられて育ち、自分を痛めつけ、枠にはめ、抑圧し、今では毎日パニックを起こしながら、もう死んでしまいたいと泣きながら、薬を飲みながら、メチャクチャになって生きている。毎日一日中小説を書いて暮らすわけにもいかず、たくさん我慢をして、無理矢理働いて、その結果、過敏性腸症候群になってしまったようなのである(ここには書かないが、他にも生まれつきの障がいなど、無数の苦しみがある)。
親は基本、父親一人母親一人で取り替えはきかないし、親だって自分の人生を生きるので、子どもだけでなく周りの人間とやっていくので必死で、子どもを正しく育てられなかったらそれだけで断罪するわけにもいかないと今では思う。毒親だからって責めたところで親を誰かの親と交換することはできない。それに大人になってからに限らず子どもの時分にも、周りで関わっているのは親だけではないはずである。親だけに過剰に責任を押しつけるのは難しいんじゃないか、じゃあ自分でやってみろと思う。
でも、子どもは確実に傷つく。自分で自分を苦しめていると、登場人物と同じく「ああなって」しまう。それは嫌だ。望まない生き方をしたくない。そうするためにはなにをするか?簡単じゃないしずっと答えを探してる。でもまずは「幸せになりたい」「誰が何と言っても」心からそう願わなくては。
帰り道、そう強く思った。
・自分の価値観と合っていたので共感度、納得度、充実感が高かった
ぞっとする、正視に耐えない地獄絵図だった。少し気分が悪くなる場面もあった。でも私の根本の価値観に合っていたので共感できたし納得できた。それで、これまで観てきた演劇のなかで充実感がいちばん高かった。
こんな感じかな。あとで追記するかも。
空宙空地の感想も早くアップしなくては。ぼちぼち。
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