見出し画像

「ふったらどしゃぶり」の原作とか6話とかの感想を最終回放送前にダラダラ書いてみた

とにかく原作が良すぎるのです。
その原作を先に読んでしまった私が悪い。そして死ぬほど感動してしまった私が悪い。

原作を読んでからドラマを見ると、本当にすごく丁寧に作られていることが分かります。正直かなりの良作だと思っています。
限られた尺と予算の中で最高のものを作る、という制作側のプライドも熱量も感じられるし、原作への強い思いを持って制作されたことにリスペクトの念を禁じ得ないです。

ただ私は原作を読んでしまったので、どうしても原作の感想を交えてのものになってしまうので申し訳ないです。
つか、じゃ、原作のいいところはなに?
そう。そんなの死ぬほどあります。

例えば、その繊細な感情描写だったり。
一枚一枚薄雪を重ねるように紡がれる物語だったり。緻密に注意深く貼られた伏線だったり。恐ろしい程の文章力だったり。多彩な表現手段だったり。
静かだけど確かな思いが積み重なっていく物語運び、心に深く刺さり長く残り続ける台詞の数々、色彩の使い方、雨や空模様で人物の感情を表現する美しさ、とにかく文章が美しい。そして読後の凄まじい余韻・・・

もう上げればキリがない。というか私の語彙力じゃとても言い表せない。
ページをめくるごとにつづられる言葉ひとつひとつが、私の細胞の隙間を埋めて満たされるような感覚に興奮し、細胞ひとつひとつがこれが欲しかったと喜ぶ感じ、想像しない展開に細胞が沸き立つ感じ、そして納得させられる快感・・・

そんな原作に感動しまくった私が、いったいなにを語りたいのか。
それはただひとつ。

「セックスしたいです」のあとの性描写素晴らしすぎない??


そうなんです。原作のこれがあまりに素晴らしくて、私はすっかり魂を奪われてしまったんです。
だからいったいなにがそんなに素晴らしかったのか、自分自身のためにもそれを書いてみたいのです。
ちょっとうまく説明できる自信がないので、大きく3つに分けて説明してみます。

まず1つ目。
『セクシャリティを越える描写』

前の記事でも散々暴れたのですが、なんでノンケの一顕が同性の整を抱けるんだと、そこが最大の違和感であり疑問点だったわけなんですね。
原作ではここが見事に全て描写されていました。

いや、この「セクシャリティを越える描写」って本当に難しいと思うんです。
実際セクシャリティってなかなか越えられないですよ。持って生まれたものだもん。
左利きで生まれた人のお箸や鉛筆を扱う手を例え右に矯正しても、本質の左利きであることは変わらないように、ゲイはゲイでノンケはノンケ。そこには絶対的に越えられない線があると私は思っていて、だからこそ、ゲイがノンケに恋心を抱いてしまう切なさや苦しさに身を焦がしてしまう物語がうまれてしまうわけなんだし・・・

「本来男なんて全然恋愛対象外だけどお前だから好きになった」っていうのはBLあるあるだし全腐女子の夢でもあるんだけど、それを萌えやファンタジーに逃げずに真正面から炙り出して描くのは本当に難しいと思う。
だから最初の設定から登場人物をゲイってするBL作品がほとんどで、実際私もその方が小難しく考えずにすんなりその世界に入っていけるので楽なんだけど、あえてそこを逃げないで真正面から描いていたこと。
まずそれに驚いたしすごく感動したのです。

過去私が読んできた少なくないBL作品でも、この「ノンケがいかにして同性に恋愛感情を持ち性欲へと繋がっていくのか」を真正面から描こうとしてる作品はそんなに多くないと思う。
私が知ってる中では、例えば木原音瀬先生の「美しいこと」とか「箱の中」「檻の外」とか。
これは言わずもがな万人が認める大名作中の大名作だけど、これもよくここまで書いたなと、書いてるご本人先生も身も心も削りまくってズタボロなんじゃないかと思わされるほど妥協なく掘り下げていたんだけど、正直その一連をこの「ふったらどしゃぶり」では、あの夜の性行為で全て表現されてたと感じたんですね。

まず、ノンケの一顕が男の整を抱こうとしてることにめちゃくちゃ戸惑って、本当にできるんかなと試行錯誤してるところ。ここにめちゃくちゃリアリティがありました。

勢いに任せて「セックスしたい」とホテルまで来てしまったけど、はてどうしよう。やり方なんて分かるのか、そもそもちゃんと勃つのか、欲情できるのか、その辺の葛藤が原作ではすごくリアルに詳細に描かれていました。
恋愛感情のない中から、手探り手探りやってるうちに、お互いに信頼感が生まれ協力しあう様子。生身の人間の温もりと感触、肌同士で聴く心臓の音(この表現めちゃくちゃ好きです)にだんだん心が溶かされていく描写。
お互い、和章とかかおりとかを想像してみたけど意外に上手くいかないところなんかは、「セックスできるなら相手は誰でもよかっただろ」の疑念を真っ向から潰してくれたし、
「肩とか二の腕とか、直接的ではない、しかし何でもない他人に触らせる場所ではない」、そんなところからお互い慎重に距離を縮めていく様子とか、人の肌の温もりに心地よさを覚えるところとか、性欲というよりもローションやホテル代がもったいなくて「やってやる」って奮起するとことかなんか妙にリアルで笑ってしまったし、ほんと色気もなんもない状況からめくるめく快感に溺れてしまうまでの段階がものすごく丁寧に描かれていて驚きました。
その中で、鼻筋の通った横顔が綺麗なことに気づいたり、相手の身体の特徴やポイントを探りあてたり、だんだんと愛おしさが増していく様がほんと手に取るようにリアルで・・・

そしてこの一文。

「信頼、バランス、意思疎通、セックスにはかくも様々な材料が必要だ。」

これにもうはたと膝を打ったというか、目からうろこがバタバタ落ちたんですよね。
いやもう、これこそが真理。
「信頼や意思疎通」を他者と共有したいという欲求を否定され続けてきた2人には、この一連の確認作業が何より大事だったのだと思います。
もちろんこれは同性だからではなく、異性間でも当然あるべきことなんだけど、こと男女となると本能的にとりあえずはできてしまう部分って大きいと思うから、ここでノンケの一顕が同性の整を抱く、ここに非常に大きな意味があると思いました。そして整は整で、一顕に同情の念で身体を差し出したけど、身体だけでなく心が一顕に落ちていくっていう描写がしっかりなされていて、本当に素晴らしいです。
とにかくこの辺りの説得力に驚いたし、絶対越えられるはずのないと信じていたセクシャリティというものがいかに曖昧なものなのか、男は女を愛するものだと無意識に植え付けられた社会常識にすぎないのだということを体現してみせた。
ここに私は死ぬほど感動したわけなんです。

そして2つ目。
『「せっくす=愛」だけではない』

だいたいにおいて、愛する人ができた→その人とやりたい。
この順番で「性欲は愛のゴール」として描かれると思うんですが、それを人間である限り、生物である限り、性欲は当然あるものとしてを前提として描かれていたこと。
これに心揺さぶられました。

まず生き物の欲求として性欲があり、それを誰とするかどういう状況でするか、という視点で描かれていて、性欲というものを「愛」という曖昧で美しいオブラートに包まずに、本来生物として備わってる当たり前の欲望そのものとして描こうとしているんですよね。

つまり、「かおりが好きなんだよね?だからかおりとやりたいんだよね?それを拒否されてつらいんだよね?」という視点だと、じゃなんで整でもいいの?誰でもいいの?となる。
でも本作の場合は、性欲そのものに焦点が当てられ、そこから人間の深い感情や業、他者と交わることの本質や難しさやかけがえのなさをこれでもかと掘り下げられているので、相手が絶対的にかおりである必要性から疑問符を投げかけてくる。考えさせてくる。

だからこそ性行為の手順のひとつひとつ、交わされる言葉ひとつひとつに意味があるのだし、行為のひとつひとつで2人の心が変わっていく様子が一切の妥協なく、安易な萌やエロに逃げることなく描かれていて、性欲を持つ自分が受け入れられる喜び、受け入れる喜び、精神と肉体が他者に肯定される喜びがものすごい筆致で描かれていて、これが本当にすごかった。
だいぶ直接的な表現をすること許されるならば、それこそ触れた部分、乳首とか前立腺とか内側の粘膜とか、最初はただ不快なだけだったりくすぐったかったりする中で次第に快感に目覚めていく様子とか、そういう過程をしっかり描くことで、身体と心は如実に繋がってるんだということを原作では描かれていたと思う。
そしてそれこそがこの物語の根幹なのだと、強く感じました。

正直、性行為を、愛のもの、愛の究極形態として描かれることが殆どの中において、性描写でここまで人間の深い業や感情を描きだしたのはすごいことだし、なかなかそういう作品には出会えない思っているので、(唯一ポルノグラファーくらいか)、ここまでの性描写をしてくれてありがとうございます。と拝みたいくらいの気持ちです。

ただそれを実写でやるとなると、そんな手順をいちいち描けるわけもなく、それこそ後ろの穴を解す様子からそれに伴って感じ方や表情が変化する様子とかなんて、地上波では限界があるだろうし、下手したらジャンル変わってしまうやろってことにもなるので、余程の手腕がない限りは確かにこれは難しいところですよね・・・。


そして3つ目。
『受け入れ受け入れられる幸福とカタルシス』

いやもう、ほんとこれがすごいんです。
原作でもドラマでも半分以上の時間を使って丁寧に描かれた「パートナーに拒否される描写」。溜まりに溜まった鬱憤、辛さ、やりきれなさ、孤独、全部がこの一晩(原作では二晩)の性行為によって大解放されるこのカタルシスったらないです。
これが一穂ミチさんの筆致と表現力でぶわーと解放される快感はすごかった。読んでる私まで追体験できたような感覚になりました。

この一晩で自分を取り巻く全てが変わってしまった。細胞ごと生まれ変わったかのように世界が一変した。
この感覚を、理屈ではなく、見事に肌で実感させてくれたんです、原作では。
綴られる文章の圧倒的な迫力によってそれが実体験として、まるで読んでる自分の細胞まで生まれ変わったような、なんの代り映えもしないはずのいつもの自分の部屋が違う色に見えたくらい、それくらいの圧倒的な衝撃だったんです。
これだけのものを書いてしまえる一穂ミチ先生の実力にも、こんな作品に出会えてなかった自分にも、そして今こうしてその作品に触れている奇跡にも、そんなの全部に感動してしまって、あぁこれこそどしゃぶりだと。そう思いました。
まさにどしゃぶりの雨のように、全ての欲望が決壊し解放され洗い流される様があって、時間も日常も現実も会社も仕事も和章もかおりも男も女も全てを忘れ隔絶された2人だけの空間でひたすら行為に耽る。
これがあってこその今までであり今後の展開なので、本当にこれは素晴らしかった。
(合わせて、BL的にも腐女子的にもこんなにえっちなこといっぱいやってくれてありがとうございます、という気持ちがあったことも言い置きます。)


以上、この3つをあの日の性行為で全て表現したことが本当にすごい思うんです。

だから、一顕の「半井さんとセックスしたいです」が唐突に見えた、という私の感想は、それは正解だった。あそこは唐突でいいんです。衝動的に一顕は自分を受け入れてくれそうな整に縋りついた。助けを求めた。そこに深い理由や理屈なんてない。それでいいんです。
きっかけはなんにしろ、そのあとにこれだけの関係性を繰り広げて見せてくれた。だから唐突であってしかるべき。そうあらねばならない。
だからここはドラマでもちゃんと忠実に描かれていたのだと、はっきり分かりました。

そして、1点目も2点目も、ドラマでは原作に忠実に、本当に丁寧に描かれていたと思います。
「この身体がいらないなんて、ぜいたくなやつがいるんだな」という整の言葉で涙を堪える一顕の様子からは、ずっと肯定されたかった苦しみや孤独がよく表されていて本当に胸に迫った。

ただどうしても残念だったのは、3つ目の「カタルシス」。これがほとんど描かれていなかったことです。溜まりに溜まった性欲全開放!!!っていう浄化感が全く感じられなかったのはやはり残念でした。
もちろん尺的な問題とか色々でそこまでできなかったのはめちゃくちゃ分かります。演者にそこまでさせらないっていう大人の事情もあるだろうし。下手したらゲイビにもなりかねないし・・・

ただこの作品に関してはそここそが肝、2人が衝動的に体を重ねようとしてからの、最終的に心も体もその行為に嵐のように飲まれ溺れ満たされてしまう、そのカタルシスこそが本当に大事だと思うので、ただ綺麗に身体を重ねるだけの描写では、原作の根幹は伝えきれなったのではないかと、そこはやはり残念に感じました。
もちろん、最初の行為ではキスはしなくて、翌朝激しく求め合いそこで初めてキスをする、と、キスひとつもすごくすごく大切に描かれていたので、とても丁寧に作られてるなとそこは素直に感動したし、2人の心情の変化を見せて貰えたと思います。

ただ、後に和章に言う「さるみたいにやりまくってました」っていう台詞も、どこが?ってなってしまったのがやはりもったいなかった。
原作では本当にやりまくってて、こんだけ心も体も繋がってしまったらそりゃもう戻れないよね、感がめちゃくちゃ伝わってきたんだけど、ドラマではやっぱりそこがどうしても足らなかったようには思えました。

もしあのカタルシスがもう少し描かれていたら、もしかしたらドラマを見た時のあの違和感や疑問はなかったかもしれないな、というのが今現在何となくの結論です。

あと、もうひとつ。かおりについてもお話したいのですが。
ドラマのかおりはあんまり好きではないと言いましたが、原作のかおりにはだいぶ感情移入してしまったのが正直なところです。
たぶんかおりは女性としてすごく頑張ってたんだと思います。
家事を頑張り、仕事を頑張り、そしておそらく女性としていつも綺麗でいようと頑張っていたと思う。
メイクも抜かりなく、服装にも気遣い、一顕の前ではだらしない姿を見せたりしなかったんだと思います。

女性ってほんと大変ですよね。家事、仕事、美容、それだけで24時間足りないくらい大変です。そりゃセックスが後回しになるのはめちゃくちゃ分かります。
だからたぶんかおりはそんなに深い理由もなくなんとなくしなかっただけだと思うんです。拒否、なんて強い気持ちもなく、ただなんとなく後回しにしてしまった。
優先順位の問題なだけだと思うんです。セックスの優先順位が生活を共にする中でただ変わってしまった。
恐らくかおりは、そんな行為はしなくても日常生活のかけがえのない時間の積み重ねとか何気ないやとりとか、そこで愛情を感じていたし、十分愛情を伝えられていると感じていたんだと思います。そこにセックスがあるかないかは彼女にとってはそんなに大きな問題ではなかった。

それがまさかセックスしないから浮気されるなんて、本当にショックだったと思う。
え?ふたりで積み重ねてきた時間、ふたりで選んだ家具や食器、あなたのために作った料理、洗ってあげたパンツ、交わした言葉、交わした笑顔、一緒に見た景色、それ全部セックスに負けるんだ・・・みたいな絶望。
この気持ちはまじで痛い程は分かりすぎて辛かった。
そしてそれが相手が男ってことで、そのショックはなおさらだったと思う。
その結果が「つーか男かよ」の一文に集約されていたと思う。

「つーか男かよ」。ドラマではことさら強調されてはいなかった一文だけど、ここに大きな意味があるように個人的には思います。
そして、男性と関係を持った一顕が気持ち悪い。触られたくない。ここにもかおりがいわゆる「普通」の女性であるということが強調されている気がしました。
(そしてその辺はかおりの育った家庭環境にあるような気もするんだけど、ドラマではそこまでは触れていませんでしたね。)

だから、「だれと付き合ってもいつの間にかそういうことがいやになっちゃうの」「あぁ私まただ・・・」と、原作にはない台詞が足されていたことで、ドラマではまるでかおりがアセクシャルな人のように描かれていたのが、原作とは少し違うなと感じました。
原作を読んだ私のかおりの印象は、至って普通の女性です。好きの気持ちを表現する方法が恋人とすれ違ってしまっただけで、特別マイノリティの特徴があってセックスできなかったわけではない。
かおりはあくまでマジョリティ。多くの人が持ちうる悩みを代弁するキャラだと原作のかおりからは感じたので、まるでかおりがアセクシャルのためにセックスできなかったと、それがマイノリティとしての悩みにのようにしてしまうのは、原作の趣旨とちょっとズレるのではないかというような気が、個人的にはしました。
そこは少し原作の解釈と違ったかもしれません。

今まで恋人の携帯を見ることはないって言っていたかおりの心情についても、これも本当にそうだったんだと思います。嘘をついてたわけではなく本当に今までは見たことがなかったんだと思います。
そしてそこには一顕との関係への自信や信頼、自分なりのプライドがあったと思います。
それが、いざこういう状況になったら、自分も恋人の携帯を血眼で見てしまうような女だったんだ。なんだ、私もその辺にいるただの女、十把一絡げじゃん、っていう絶望。
原作のかおりからは、そんな多くの女性が持ちうる経験や感情が感じられました。やはりここでもかおりのマジョリティ性が描かれているように思うのです。

原作を読みながら私が脳内で思い描いたかおりは、一顕と整のメールを読みながら、化粧っけもなく、飾らず、ただひとりの女性として、自分なりに人生かけてきたつもりの恋愛に敗れ、守ってきたプライドが崩れ、セックスってなによ。そんなに重要?と泣き崩れたいような地団駄踏みたいような、とにかく大きな大きなひとつの恋愛をなくした、そんな姿が脳裏に描かれてしまったんですね。

だから、ドラマの喫茶店で待ち合わせてるかおりを見た時は正直少し綺麗すぎるかなとは思いました。もう少し泣いたり喚いたり取り乱したり自責の念で苦しんだりした痕跡があればもっとよかったような気もします。
メイクばっちりで髪の毛ひとつ乱すことなく、まるでお人形さんのように綺麗なかおりからは少し感情が見えにくい部分もあったように思いました。
もちろん女優さんの演技はすごくよかったのでそこで十分にカバーされていたとは思いますが、欲を言えば、一顕には見せないかおりの背景が想像できるような表情や仕草、髪の毛のほんの少しの乱れや笑い皺のくたびれなど、それこそ所謂行間というものがもう少しあれば、もしかしたらもっとよかったかな、と思ったりします。
それこそ、「つーか男かよ」と思わず吐き出してしまったほどに崩壊してしまったかおりをもう少し見せて欲しかった。
というのは、これは原作好きのわがままですね。

ただ原作ではメールでなされていたそれらのやりとりが、ドラマでは実際会って別れ話する演出に変更されていたのは、その方が2人の感情がしっかり見せられるし、短い尺でのうまい改変だったなと感じました。

そして最後に、和章ですよね。
ドラマで見てる時は全く気持ちが読めないしだいぶ苦手なキャラだったんですが、原作を読んで実はかなり好きになりました。

ずっと整が好きで、好きすぎて迂闊に手を出せなかった和章。
罪悪感に雁字搦めで自分が整を愛する資格はないと思い込んでいるんですよね。整に手を出すことで汚してしまうんじゃないかと恐れている。女性と結婚して子供を持って、と所謂「普通」の生き方を望んでいた両親の最後の願いのために、男の自分が同性の整に手を出してはいけないと強く自分を律している。
そんな和章に泣かされました。
あれだけ感情が読めなくて、どこか不気味でさえあった和章がまさかそんな苦しい気持ちを抱いていたなんて・・・

原作にあった爪の描写、「綺麗に守ってくれていたものが剥がれる」という一文に私は胸が苦しくなるほど泣きました。(ここの爪の伏線回収の仕方もあまりにも素晴らしすぎますよね)
和章は和章なりに整を精一杯守っていたんです。やり方は間違っていたかもしれないけどそこには実は深い愛があった。
別れるしかないというこの土壇場になって初めて、整はその和章の深い愛を知るんです。その切なさったらどうでしょう。
何かを得ることは、何かを失うことです。そして失った時に初めて、その大きさや大切さを知る。
整はこの時に、いかに自分がその庇護の下にいたかを知るんです。
そんなやり切れなさを原作からは強く感じたので、整の両親の事故の話や和章の心情吐露もなくでは、和章がただの身勝手なDV男に見えてしまって、あの最初で最後のセックスがどれほど痛みだったのか、それが今ひとつ伝わってこなくて、それはやはりもったいないと感じました。

松本大輝さんの演技はかなり好きで、とてもいいなと感じています。
特に目の表情が好きです。深い感情を心の奥底に押し殺したような目にすごく惹きつけられます。
だから松本大輝さんの和章をもっと見たかった・・・というのはやはりわがままですね。そこまでやってたら尺なんてなんぼあっても足らないですもんね。

だらだらと言いたい放題すみません。
ちょっとマイナスな感想もいくつか書いてしまいましたが、これは決して批判でも悪口でもヘイトでもないです。
丁寧に描かれているひとつひとつの描写の、ほんの少しの齟齬が地味に積み重なり、己の読解力のなさと感受性の欠如が決定打となり、気が付けば原作の感動と少し離れていた。
原作が好きになりすぎた者の愛ゆえの戯言と大きな気持ちで見逃して貰えると幸いです。

それにしてもあと1話で終わってしまうって本当ですか。あまりに短かすぎませんか。
私が大好きな愛してやまないあのシーンとか、あのシーンとか、いったいあと一話でどこまで描いてくれるのか。
胸を抱えて涙した位好きなシーンがある。顔を覆って泣きながら笑ってしまったほど愛おしく大好きな台詞がある。
それらをどんな風に描いてくれるのか。

期待半分、不安半分・・・
心して拝見したいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!