47都道府県の居酒屋をめぐった太田和彦が感じた、外国にはない「日本の居酒屋」
長い間、居酒屋を訪ねて日本中を歩いてきた。
すべての県はもちろん、毎年のように訪ねるところも。その旅が何十年も積み重なると各地の特徴が見えてくる。コンビニやチェーン店の普及で、駅前あたりは日本中どこも同じようになってしまったのはその通りだが、それゆえに裏通りで郷土色を残している古い店が、くっきりと浮かび上がってきた。
町の人口が増え、経済的、行政的に安定が生まれると、住む人がくつろぐ場所としての居酒屋が求められてくる。一日の疲れをとりながら、できごとを話し、互いの気心を知って、町の安定感になってゆく。よそからの客をもてなすために地方色を強調した接待店ではなく、住民が毎日通え、安価で飽きない、いや飽きているが、だからこそ落ち着く。互いに飾り気なしの本音で通用する場所としての居酒屋がある町は健全だ。そこにこそ各地の県民性が表れていると気づいた。そうなるとその県民性を味わいにまた出かけてゆく。
島国の日本は閉鎖的で外国と交流がなく、江戸期に長期安定をみた藩制は、その地方の気質を生み出してきた。土地の歴史が育てた県民性がこれほど細かく多様なのは、日本という国の特徴かもしれない。言葉はもちろん、話題、自慢、引け目。すぐ打ち解けてくれたり、警戒心が強かったり、長尻だったり、はしごだったり。一杯やりながら眺めている県民性はまことに多様で、国内各地の旅の面白さはそこにある。土地に古くから残るものを探って記録するのは民俗学だ。いつしか「居酒屋の民俗学」と思うようになった。
私自身は18歳で長野県から上京して以来東京暮らしとなり、会社や仕事の場ではなく、居酒屋で東京人気質を知っていった。気質がわかるとつきあい易くなる。こういう話はおもしろがられ、こういう話にはのってこない。たまに試しにそれを振ると案の定ということも。東京も広く、山の手、下町、浅草、神田、中央線沿線など、自負する江戸っ子気質は異なることも知った。
また東京は私のような上京者の都市ゆえ、出身地の話をすると目を細めてくれ、そこの居酒屋での経験などに、必ず「そうそう」と一杯注いでくれる。むずかしい議論とはちがう、郷土の自慢話や恥ずかしさは、互いに人間じゃないかと、うち解けた空気が生まれる。
逆に、自分の出身地の県民性も客観的に見るようになり、その目で再訪して、自分はこういう人間だったんだと思うのもほろ苦い経験だ。しかし根底には愛があり「出身だからしょうがないよ」と他県人の気質も認めてゆくことになる。それは豊かなことだ。
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各地の居酒屋から見た県民性がわかってくると、ではその総体「日本の居酒屋」に表れる国民性はどういうものかを考えるようになった。
世界の酒場に詳しいわけではなく、入ったことがある程度だが、イギリスのパブ、フランスのカフェ、ドイツのビアホール、イタリアやスペインのバル、アメリカのスナックバーなど世界中に、庶民が気軽に一杯やって一息つくところはあった。日本では居酒屋だ。
日本の居酒屋の特徴は料理が圧倒的に多種多様に多いことと思う。外国はレストランに入ればいろいろあるんだろうけれど、そこは食事をするところ。酒を飲むための居酒屋はソーセージかフィッシュアンドチップス、フライドポテトくらいで、さほど凝らず、そもそもあまり食べ物を注文しない。
しかし日本には「酒のつまみ」という一大料理ジャンルがある。畑の野菜、海や川の魚介、海藻、鶏・豚・牛肉、それらのモツ、豆腐、油揚などのお惣菜、煮物、漬物、揚げ物、串焼き。「珍味」という酒をうまくするためだけのもの。季節が加わって「お、これが出たか」という楽しみも。そして中年男に人気の「母の味」。総品数が100以上あるのは普通。それらはすべて食事ではない酒を飲むための「肴」で、一皿の量は少なく、酒の進行に合わせて適当に追加する。レストランのディナーや高級料理屋の、店が主導権をもつコースはなく、山ほどある品から好きなものをばらばらに頼めばよく、店は定番も名物も工夫を凝らして客を待つ。まことに民主的なこういう店が成り立つのは、日本の食材の豊かさであり、サービス精神と思う。
また黙っていても出る「お通し」というものがあり、これは選べず安価有料だが、その店の特徴、気の利き方を表す楽しみになる。注文の料理ができるまで、しばらくこれでしのいでくださいと、日本人は丁寧だ。いつも同じ品と決めている店もあり、客はそれでその店に来た実感をわかす。
これだけ豊かな食が日常的に安価に提供されている飲食店は諸外国にはないだろう。南北に長く、四方を海に囲まれ、地形は変化に富んでさまざまな気候風土となり、それにあった農業、漁業、さらに調理を工夫するのが好きな国民性が生んだ、日本の食文化の豊かさゆえだ。日本人はその豊かさを居酒屋で日常的に楽しんでいる。
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また日本の居酒屋の特徴としては、会社帰りに同僚や部下などと「ちょっと一杯」と人を誘って入る風習があること。欧米では勤務時間が終わると1人で帰るのが当たり前で、飲みながら仕事の話の続きや愚痴を言いあい、その場でさっぱりするというのは理解を超えるようだ。日本も最近はこういうことを忌避する傾向らしいが、私は酒を間に本音を語りあうのはとてもよいことで、垣根をなくし人を育てると思う。そのために居酒屋という格好の場所がある。日本の居酒屋は胸襟を開いて他人と交わる場所なのだ。個人主義よりも協調をよりどころとする島国的国民性が、居酒屋を必要とした。昔、大学で教えているとき、スウェーデンから交換訪問で来日した教授を居酒屋に案内すると、わが国にはこういう店はないと喜んでいた。
さらに、1人で入って店の主人や女将と親しく話す楽しみもある。「顔を出す」と言う。これは仕事や家庭とはちがう、もう一つの自分の居場所を持つことだ。日本人は家族的な雰囲気を好み、それを求めて居酒屋に行く。古い店であれば、主人が2代目なら客も2代目。「おまえの親父はそんな飲み方をしなかった」と説教されてよろこぶことも。
こうしてみると日本の居酒屋は諸外国に較べて特徴がつよいと感じる。そこで育まれる共同体意識が都市の安定装置になっている。小説でも映画でも居酒屋は日常的に登場して、本音や人間性が表れる舞台に使われる。これは文化だ。日本の居酒屋には文化がある。