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初めて「自殺」という選択肢が頭に浮かんだ日

小学校三年生の辺りから、あまり学校に行かなくなった。
理由は分からない。誰に聞かれても「なんとなく」としか答えられなかった。

そんな僕を見て、「環境を変えれば何とかなる」という、根拠もない両親の期待のもと、十二才の僕は母の地元へ引っ越すことになった。
そりゃ僕も、嫌いな人間のほとんどが集まる地区の中学なんて行きたくなかったし、新しい環境で心機一転、親の期待にも応えてみたいな、なんてぼんやり甘い考えをしてみたり。

母の地元は二、三十年前は栄えていたものの、今となっては路地の多くがシャッター街。
昭和の雰囲気を残しながら、寂れた街並みがずらりと、駅から数メートルも歩けば見渡す限りの田んぼと畑。
最寄りのコンビニが徒歩十五分とかいう、本当に隔離された町だった。

僕が入学した中学校も、少子高齢化により過疎化が進んで、全校生徒はわずか百二十人の小規模校。
「はじめまして」が当たり前のはずの入学式では、自分以外すべての人間が「ひさしぶり」を口にしていた。
ふわり、自分だけ足元が浮いた気がして、現実感がないまま形だけの入学式を終えた。
慣れない道を通学してみて、かかった時間は自転車で十五分。
まあ、こんな田舎にしては普通の距離だな。なんて考えながら、きゃっきゃと盛り上がる新入生たちの声を聞いていた。
しばらく待機するように、という「センセイ」の指示で新入生は空き教室に閉じ込められた。
絶え間ない笑い声に囲まれながら、僕は窓際に腰掛けて好きでもないルポライターの本を取り出す。
家出少女の実態。……ふーん。
二三ページ、目で追って読み入ったところで、トントンと左肩を叩かれる。
びっくりして見上げると、いかにも体育教師っぽい見た目の若そうな先生が立っていた。
「古川さん、だよね?大丈夫、みんな小さな学校出身で、転校生との接し方分からないだけだから。すぐ馴染めるよ」
彼は僕の相槌も無視して、早口でそう告げた。
「は、はあ……」
そんなふうに見えていたのか。心外だ。こんなガヤガヤしたクラスに馴染みたくなんてないけどな、なんて斜に構えながらも、その先生に嫌悪感を覚えなかったのは確かだ。
「僕は森谷。担当教科は体育だから、また会ったらよろしくね」
まだ二十代後半とも取れるその顔で、にこりと笑って爽やかに挨拶して、足早に教室を抜けた。
「あ、はい……」
動揺した僕の返事は、ただ周囲の笑い声にかき消されていくだけだった。
直後、「タンニン」がきて、張り出された席順通りに一人一人が座っていった。
周りはどんどん座っていくのに、僕だけが取り残されて、自分の名前が見つからない。
途方に暮れていると、「あなたはこっち」とついに担任に案内された。
「あ、どうも……」
情けなくなって、震える声で会釈した。着席。
ああ、今日から僕は「ふるかわ」なんだ。
分からなくなった。
物心ついてから今の今まで、「なかはら」として生きてきたクセが未だに染み付いているのを感じた。
先程も、一生懸命に探していた自分の苗字は「中原」だった。小学校の卒業証書も「中原」で通した。別に大したこだわりもなくて、ただ当時の校長のはからいだった。
そんなことを考えているうちに、簡単な説明と簡単な雑談と、ただ有り体な「入学式」が終わった。
その日から、僕の母校はクソ田舎にある何の変哲もない「南中学校」になった。

入学して数日で「喋らない子」のイメージづくりに成功したのか、先生も生徒も僕に話しかけてくることはなくなった。
というか、人見知りなので話しかけられるほうが怖かったりする。
友達なんていなくても、たった三年、勉強して帰ればいいだけ、そう思っていた。

そう思って通い続けて二ヶ月、なんだか自分がおかしくなったのを感じた。
朝ベッドから起きられない、なんとか起き上がれたとしても立ちくらみが止まらない。
目の前が真っ暗になって、ぐらり、もたれるところがなければ通学中にも座り込んでしまう。
朝食なんて食べられなかった。
制服が重くて着れなくて、仕方がないのでジャージで通学した。
遅刻。遅刻。それだけで頭がいっぱいだった。

「すみません、遅れました……」
息を切らしながら職員室のドアを叩き、言い慣れない「古川」という苗字を名乗る。
苗字とすら思っていない。旧友は今でもおれを「中原」と呼ぶ。ただおれに与えられた識別番号に過ぎなかった。
「あれ、古川くん。遅刻なんて珍しいね」
そう言って、非常勤の美術の先生が振り向いた。
「ちょっと寝坊しちゃって……」
あはは、と苦笑いを浮かべながら答えると、五十代くらいの美術の先生は優しく「そういう日もあるよ」と遅刻届を渡してくれた。
「いってらっしゃい、がんばってね」
「工藤」というその先生にぽん、と背中を優しく押されながら、その感覚に少し後ろめたさを感じながら、初夏の緑が綺麗に映る廊下を抜けて、三階の教室へと向かう。
階段を登りながら、またも心拍数が上がり、息が切れる。
なんだこれ、夏バテか。
そんなことを思いながら、一年の教室の前に立ったとき、ちょうど朝礼と一限目の最中で、はしゃぎ出すクラスメイトの声が聞こえた。

「あはは、あの子来ないじゃん笑」
「あの子って?古川さんのこと?」
「そうそう、最初からなんか変だと思ってたんだよねー、喋らないし」
「なんか気持ち悪いっていうかー」
「そうそう!わかるわかる笑」

クラスメイトの可愛らしい女子の、甲高い声が扉越しに聞こえてくる。
その瞬間、一気に現実感がなくなって、躰がふわりと宙に浮かぶ感覚があった。
手足の震えをどうにか気合いで抑えながら、とにかく教室の引き戸に手をかけた。
がらがら、という効果音に惹き付けられるようにクラスメイトのほとんどの視線が、僕を貫く。
それらをすべて無視して、知らないふりをして、俯きながら早歩きで教壇に立っている「志田」という三十代くらいの男の担任に、遅刻届を差し出す。
「すみません」
軽く謝罪をすると「もう一限だから、席に着いて」とぶっきらぼうに返され、逃げるように窓際の後ろから二番目の空いた席に座る。
そうして気づく。

「死ね」

鉛筆で書かれた、歪な言葉に。
後から消しゴムで消そうとしたのか、薄れているのがわかる。
ドッドッドッ、と速まる自分の心臓の音が五月蝿いくらいに聞こえてきた。
眩暈がする。
目の前がチカチカと暗転しそうなのをどうにか堪えながら、指先で擦って更にさらに、さらに、見えなくなるまで無心で「死ね」を薄めた。
その必死さに、指先が熱を持つのが分かった。
途端、チャイムが鳴るのとほぼ同時に号令がかかる。
「起立」の合図に動揺して、少し遅れてガタン、と音を立てながら僕も立ち上がった。
「礼、着席」
そんな言葉が耳に入らないくらい、ずっと頭の中では一言、「死ね」が木霊していた。

その日はずっと現実味がなかった。
流れるように、二限、三限が終わり、気がつけば下校時刻。
僕が惰性で所属した部活は、顧問なんて形ばかりで、非常勤の工藤先生がいるときだけ作品づくりをするだけの、適当な美術部だった。
四月の最初のほうの美術の授業で、見るからに吃音か場面緘黙の男の子に無理やり発表させようとしている工藤が気に入らなくて、その後の休み時間に一人美術室に残って「見て分からないんすか?彼が一言口にするのがどれだけ大変か、名前も知らない僕でも分かりますよ」と文句をつけに行ったことが逆に喜ばれて、「美術部に来ないか」と相手から声がかかった。
正直乗り気ではなかったが、運動部に入りたいわけでもなかったし、惰性で入部届を書いた。
その数日後、職員室に呼ばれて「あの時、なんで長島くんが場面緘黙症だって分かったの?」「前の学校でもそういう子がいたの?」と質問責めに遭った。
「え、別に、そんな知り合い居ないっすけど、あんなに苦しそうに話そうとしてるの、見たら分かるじゃないですか。」
そう答えたら、「ふぅん」とだけ。
なんだコイツ、という気持ちを押し殺して、「今日、部活出て帰るんで」と良い報告を残して逃げるようにその場を立ち去った。

「遅れましたー」
がらり。美術室の扉を開けると、既に部員は揃っていて、「待ってたよ古川くん」なんて思っても無い言葉で出迎えてくれる優しい先輩たち。
部員のほとんどが女子で構成されていて、残り二三人の男子は黙々と車や電車の絵を描いている、いわゆる自閉色の強そうな先輩だ。
「帰りの会が長引いちゃって」と誤魔化しながら適当な椅子に腰かけて、特にやりたいこともなかったので、持ち込んだ小説を読んでいた。
周りの部員は、受け攻めの論争に白熱する部長と副部長、黙々とちょっとグロテスクなイラストを完成させている二年の篠田先輩と、わざわざ僕の隣に座ってきて「何読んでるのー?」と聞いてくる、あざといような、ボクっ子の黒澤先輩。
同級生はいなかった。それが僕にとって唯一の救いだった。
「これは酒鬼薔薇聖斗っていう、昔の少年犯罪についての本で……」
言葉を選びながら、丁寧に説明する。
ああ、聞いたことある!とでも言いたげに頷く彼女の無垢な瞳に、これ以上語ることは避けたくなって「まあ、僕もあんま興味無いんすけどね」と言って急いでカバンにしまった。
がらり。また美術室の戸が引かれる。
ちらりと顔を覗かせるのは美術部の顧問、工藤先生だった。
「様子見に来たよ、あと、これ。」
彼女の両手には部員全員で分け合えるだけの個包装のチョコレートがあった。
「わあ!ありがとうございます〜」
真っ先に部長が気づいて、受け取り「他の人には内緒だからね」と小声で笑う工藤先生に、確かな人間味を感じた。

「完全下校時刻です」
全校に響き渡るような無機質なアナウンスで、みんなが帰りの支度を始める。
「お疲れ様です」
わざとぶっきらぼうに言い放って、自分の荷物を抱えて部室を出る。
「ちょ、古川くん、来週も来るんだからね!」
慌てた様子で黒澤先輩が言う。
きっと、部員に一年生がいないから後輩が貴重でたまらないんだろうな、なんて捻くれた考えを持ちながら「たぶん行きます」と笑って見せた。

なんの練習もない美術部とは違って、運動部や吹奏楽部は土日も登校しているらしい。
二階の自室から見える、同じ制服を着た彼らを見ながら優越感に浸って、二度寝した。
その頃には、前日のことなんて忘れていた。

そんなふうに、いつも通りが続いた六月の半ば、クラスの一大イベントともいえる、「席替え」をすることになった。
正直、後ろの席ならどこでもいい、と思っていた。
頬杖をついて窓の外を見てさえいれば、くだらない四十五分を耐え凌ぐことくらい簡単だったからだ。
よくあるくじ引き形式で、出席番号順に呼ばれて実行委員の手作り感満載の箱から小さな紙を取り出しているのが見えた。
「……次、ふ、古川さんだよ」
話したこともない後ろの席の女子が、話しかけづらそうに、呼びにくそうに、苦虫を噛み潰したような表情で僕に教えてくれた。
「正直どこでもいいんで、先どうぞ」
「あ、うん」
思ったより淡白な返事が返ってきて、僕のほうが動揺しながら、また机に突っ伏した。
カーテンを揺らす、初夏の香りを感じていた。
「渡辺」と呼ばれた男子の後ろに何気なく並んで、「引くの忘れてました」と簡単に伝えて、余った紙を貰う。
その頃には、クラスメイトはそれぞれくじ引きの席通りに移動していた。
僕の席は、廊下側の一番後ろ。になった。
窓際でないのは残念だが、まあ、後ろなんだから当たりだろ。
近づくと、先に隣に座っていた女子が、あからさまに嫌そうに顔を背けて、斜め前の男子に小声で話しかけていた。

「え、サイアクなんだけど。」

聞いてしまった。否、聞こえてしまった。
それが顔に出ないように平常心で、あたかも当然であるかのように、くじ引き通りの席に座った。

「じゃあオレの後ろってことじゃん、うわ!席替え失敗したー」

なんの悪気も無さそうに、サッカー部の彼は悔しそうに小さなくじ引き用紙を握り潰す。
すみません、すみません。言葉にはしない謝罪を何度も心の中で繰り返した。
そのサッカー部の男は、「平野」といって、いわゆる「陽キャ」の部類になるんだろう。
隣の席の女は「羽鳥」といって、このクラスでは結構な権力を持っているみたいだ。
確かに、顔立ちは整っていて、色白で、常にコームと日焼け止めを欠かさない。
近くにいた数名のクラスメイトも、この事態を把握したのか「かわいそ〜」と嘲笑混じりの声が聞こえてきた。
また現実味を失って、ふわふわと宙に浮かびながら音が遠くなるのを感じて、いつも通りに無表情だった。
何も分からないふりをした。

七月。もう初夏をぬけて、真夏日が増えた。
僕の感じていた可笑しさが、どんどん崩れていくのは分かっていた。
朝起きると、ベッドの上なのに動悸が止まらない。
喉元にせり上ってくる気持ち悪さ。
何も食べていないから、どれだけ待っても胃液しか出なかった。
「熱はないんだから学校に行きなさい」
「無理だったら早退すればいいんだから」
母にそう言われて、まあ、それもそうか、と思って普段より一時間ほど遅れて自転車に乗った。
その頃には、職員室で遅刻届を貰うことにも慣れていた。
三階の教室の前まで来て、突然に呼吸がしづらくなるのを感じる。
廊下の壁にぺたりと背中をつけてしゃがみ込んだ。
この時間は総合の授業らしい。
クラスメイトの話し合いの声が聞こえる。
動悸が止まらない。視界がどんどん暗くなる。息ができない。手足が震えて立ち上がれない。冷や汗が止まらない。
とにかく、とにかく水分だ。
スクールバッグに突っ込んであった水筒を手探りで探して何とか蓋を開ける。
ごくり。ゆっくりと麦茶を飲み込む。
特に変化は無かったが、水分をとったから大丈夫、大丈夫、なんて言い聞かせて、壁に支えられながら立ち上がってーー
途端、チャイムが鳴って、一斉に廊下に流れ込んでくるクラスメイトたち。
自分のことに必死すぎて、気づけなかった。
やばい。見るな、見るな。こんな僕を。
ふらふらになって、呼吸の浅い、冷や汗が滴る僕の姿を見て、見られて、女子の酷く軽蔑したような、汚物でも見るかのような視線が鋭く突き刺さる。
男子の「なんだコイツ」「キモイ」とバカにしたような笑いが遠くから聞こえてくる。
サーッと血の気が引く。
気が狂いそうだ。
よく分からなくなって、荷物を丸ごと廊下に置いて二階に降りた。

手すりに縋るようにして階段を降りた先には、保健室があった。
コンコン、数回ノックして、「失礼します、古川です。体調が優れないので、少し休ませてもらえませんか」淡々と言葉を紡ぐのが精一杯だった。
保健室にいた養護教諭の先生は、まず名簿に名前を書くようにと指示して、次に体温計を持ってきた。
脇に挟んで体温を測りながら、詳しい話を聞かれる。
「どこが悪いの?」「それはいつから?」
今思えば解離していた。養護教諭の彼女の言葉が一切頭に入らない。声は聞こえるのに、言葉として認識できない。困り果てて、ただ呆然としていると、体温計が鳴った。
特に確認もせず、彼女に手渡すと「七度五分。微熱かな。あなたはどうしたいの。」
高圧的なのは伝わった。どうしたいって、なんなんだ。わからない。とにかくあの教室にだけは戻りたくない。その言葉が上手く出てこない。
沈黙。それに苛立ちを隠せない養護教諭は、ついに痺れを切らして「だから。帰りたいの?授業受けたいの?……どっちなの?」
軽くため息をつかれた。
「……すみません、帰りたいです」
絞り出した言葉は、自分のものとは思えないほど消え入りそうなか細い声だった。
「分かりました。担任の先生と親御さんには連絡しておくから、荷物持って今日は帰って。ひとりで大丈夫だよね?」
「はい」
頭の中は真っ白で、相手が何を言っているかも分からなかったが、とりあえず「帰る」というのは分かったので、脊髄反射の返事をして、急ぎ足で荷物を取りに向かった。
ああ、よかった。ちょうど授業中らしく、廊下に出ているクラスメイトは居なかった。
置きっぱなしにしてしまったスクールバッグもそのままに残されていた。
帰り際、下駄箱の近くで工藤先生と鉢合わせした。
「あれ、早退?具合悪いの?」
「えー、あー、まあ、ちょっと……」
「気をつけて帰るんだよ、暑いから水分補給しっかりね」
この辺りから記憶はない。気づくと昼過ぎで、寝室で制服のまま寝転がっていた。

夕方、帰宅した母親が「早退したんだって?学校から電話あったよ」と一言。
ろくに会話できる気分でもなかったので「うん」と平然を装って二階の自室に籠った。
翌日の時間割を確認しようと、スクールバッグを開けたところで、やられた。
体育館シューズがない。

それから夏休みに入るまで、昼から登校して、部活だけ出て帰るような生活をしていた。
それでも欠席だけはしなかった。
小学の頃とは違うんだ、すべてやり直すんだ、そんな気持ちが根本にはあったと思う。
「気持ち悪いんだよ」「死ね」
廊下で何度か、そんな言葉を叫ばれた。
体育の授業では、ペアを組まされた女子が助けを求めるような目をして、教師と組むように促された。
ああ。自分の価値は、環境が変わっても、年齢が変わっても、みんなと同じ制服を着てみたって変わらないんだと自覚した。

そんな状態で迎えた終業式を終え、教室に戻るまでの道で、ふと落し物を見つけた。
可愛らしいハンカチだった。どこかに名前を書いていないかと広げてみた。
「ちょっと」
怒りの籠った、聞き覚えのある女子の声が、後ろから勢いよく飛んできた。
「それ、あたしのなんだけど」
振り返ってみれば、隣の席の羽鳥だった。
「あ、ホントだ。名前書いてありますね、見つかってよかっ「ねえ聞いて、私のハンカチ盗んだの、やっぱ古川だった!」

その大声に、僕の声はかき消された。
ん?

「え、彩奈がずっと探してたやつじゃん!やば!」
「うそ、……彩奈、隣の席だもんね」

苗字もよく分からない、興味のないクラスメイトの女子数名が、何やら僕の名前で遊んでいる。

「あの、盗んでないです。偶然、そこの廊下に落ちてて……」
「いや、そういう言い訳いいから。」
「ほんっと可哀想!いいから彩奈に謝んなよ!」
「え、いや、ほんとに……」
「謝らないんじゃ、心愛、先生呼んでこようか」
「そんな大事にしなくていいよ。謝ったら許すから」
「えー、彩ちゃん優しすぎ!」

意味が分からない。僕がおかしいのか?
呆然としているだけでどんどん話が進む。
なんだ、これ。なんか、そういうオートムービーみたいな感じなのか。
突然の出来事に、いまだに状況を飲み込めていない自分がいた。
もういっそ、僕が盗んだってことにして、早くこの場から立ち去りたかった。

「あ、え、……ごめん」

「あ?」

僕のか細い謝罪に、三人組の女は此方を睨みつけてくる。
あ、ミスったな、これ。

「違うでしょ、「僕が盗みましたごめんなさい」って、彩奈に向かって言うんだよ」
半笑いで僕を見る彼女は、この中で一番カーストの高そうな「美海」と呼ばれていた女だ。
「わかった?」と何度も念押してくる。
こんな情けない僕にも、一応ちっぽけなプライドはあった。いやだ、厭だ。くやしい、悔しい。
それでも、ここに助けてくれるような人間がいないことは分かりきっていた。

「……ごめ……さい」

しばらくの沈黙の後、絞り出すような謝罪をした。
聞こえなーい、と外野の女が笑った。
「はやくしろ」「あやまれ」のコールで詰め寄られて、ついには踵が教室の壁に触れるのを感じた。
その時にはプライドなんて無くなっていた。
感情なんて無くなっていた。

「ぼくがぬすみました。ごめんなさい」

アハハハハハ!!!!

教室に響く狂ったような女子の嗤い声。
否、狂っているのは明白だ。

彼女たちの間をすり抜けるように、肩がぶつかるのも承知で駆け出した。
そのうちの誰かが「きゃっ」「いたーい」とほざく声が遠のくように。
こんなとこ居られるか。
悔しくて、惨めで、情けなくて、どうしようもなくて、駆け足で階段を降りて、降りて、降りて、上履きのまま校舎を飛び出した。
アハハハハ。死ね。気持ち悪いんだよ。謝れよ。アハハハハ!死ね!きもちわりーんだよ!謝れよ!
頭の中で再生される。
五月蝿い。うるさい、うるさいうるさいうるさい
「黙れよ!!!!」

その大声に、花に水やりをしていた教頭がこちらを見た、ような気がした。
誤魔化したくて、やるせなくて、自分も、大声を上げて笑った。
施錠された校門を無理やりに、急いで飛び越えて、軽く手首を捻って、その痛みすらどうでもよくなって、しばらく笑いながら、帰路に着いた。

あはは。ははは。……っはは。ア……ハァ……ッ

段々と冷静になってくる。
うだるような暑さの中、軽く三十分はかかる道のりだった。
七月二十二日。夏休み前、最後の記憶だ。

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