俳句の時間 2021.12.23
俳句どころか人生の迷子な今。一人で頭を抱えているよりも、助けてくれる手の鳴るほうへホイホイ行ってしまう自分に呆れる。でも「楽観主義は意志である、と言うし」と自分の意志で迷子な現状を突破しようと足掻くことは嫌いじゃない。多くの人に甘え、労わられ、慰められ、助けられて、少し明るい光が差してきた。不幸はなくならないが、そうして薄めることはできるのだと信じている。不幸を薄めてくれるような存在が、私の周りにたくさんあることが幸せなのだ。俳句も含め。
さて、昨日の季語手帖の兼題はブーツだった。ここ何年もおしゃれママが履くようなブーツには縁がなくスニーカーで過ごしてきたが、裏日本に引きあげた日に妹が一足プレゼントしてくれた。気の利く、ありがたい妹である。ぜひ感謝を込めた俳句を!と思ったのだが、どうにもうまいこと作れない。そこでそのブーツを初めて履いて、郵便局に出かけたときのことを思い出してみた。靴底に足うらをおさめ、おもむろにジッパーを上げる。スパッツではなく、裾の普通に開いたズボン(パンツというのだろう、若い人は)だったので、久々の長いブーツのふくらはぎ付近で一度ジッパーが停止した。このコロナで筋肉も落ちているはずだし、太ってはいないはずだ、ズボンのせいだと瞬間的に自分に言い聞かせ、何食わぬ顔で残りのジッパーを上げた。少々きつい気もしたが、無事にてっぺんまでジッパーは上がってくれた。きついのは履いているズボンのせいだ。
ジッパーの止まるブーツのふくらはぎ 要
先日、妹が娘に足のマッサージしてもらっていて、「ますます太くなってきたね!」と言われてしまったというエピソードとこの句が浮かんだことに関連は、ある。ますます妹に感謝である。