俳句の時間 2022.01.31
朝晩の冷えが一年で一番辛い時期がやってきた。雪が解けた庭のあちこちに氷が張っていた。
それでも晴れ間があるので、福寿草の鉢を日向に出した後、山の写真を撮りに散歩に出た。今日ならいけるかと思ったが残念ながら雲が多くて、パラマウント映画の雪嶺のようなシャープな姿は見られなかった。仕方がないからレタッチしまくったが、しょせん素人。出来の悪い水彩画みたい。
散歩には、今日の裏季語「白息」を体感するというもう一つの目的があった。こちらももう日差しが暖かくて達成ならず。仕方がないから深呼吸しまくった。私の息は一向に白くならなかったが、冬のキャンパーのテントから盛んに煙が上がっていた。
近くの施設でちゃんと薪を売っていた。運がいいと雪の粟が嶺が本当にきれいに見えるので、平地でもキャンプする人がいるのだと母から聞いた。
閑話休題。問題は白息である。例句は
未完成の船の奥にて白息吐く 西東三鬼
「未完成」「にて」が持つ説明臭さを超越し、単なる報告句にとどまらずに例句として取り上げられているのはなぜなのか。もうわからなすぎた。
白くならない息を懸命に吐きながら歩く。誰もが容易く体感出来て、さほど特別感のない季語だ。冬の寒い時間帯ならいつでもどこでも召喚可能な季語だ。
ふと、例句のシチュエーションの特殊性に思い当たる。未完成の船の、しかもその奥に三鬼がいるのはなぜだ。そこにはなんらかのドラマがある。ここに書かれていないヒストリーがある。どのくらいの期間建造されているのか、どれだけの季節を過ごしてきたか、なぜまだ未完成なのか、三鬼は船主なのか、そうでないのか、俳句にそんな事情は一切書くことはできない。ただ季語「白息」がそれら一切を引き受けて下五に置かれている。季語に託す姿勢が、私にもようやく見えてきた。また「吐く」という動詞は言わずもがななのに、作者はそれを使って字余りにまでしているが、上五中七とのバランスを考えるとそれも合理的に思われてくる。試みに語順を変えてみる。
白息や未完成なる船の奥
五七五でいける。素材の取り合わせとしても悪くない気がする。が、「なる」の説明臭さを私なら許容できない。状況が特殊なだけに報告句のにおいが強まるか。ここで三鬼の代表句を引いてみる。
水枕ガバリと寒い海がある (『旗』)
算術の少年しのび泣けり夏 (『旗』)
白馬を少女瀆れて下りにけむ(『旗』)
中年や遠くみのれる夜の桃(『夜の桃』)
おそるべき君等の乳房夏来(きた)る(『夜の桃』)
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す(『夜の桃』)
広島や卵食ふ時口ひらく(句集未収録、「俳句人」1947年)
頭悪き日やげんげ田に牛暴れ(『今日』)
ほんと、自由人だよねえ。伝統俳句とそうとう喧嘩したんじゃないか。ウィキペディア調べてみたらそんな気配が。こうなってくると、季語手帖の例句はまさにthe三鬼だし、三鬼にしか作れないんだろうな、と思えてくる。
わからないなりに考えていくと、何かうっすら自分を納得させるものが浮かび上がってくる。わからないを納得に変える過程を楽しむ。それが俳句の鑑賞かもしれない。