チャミ死にたまふことなかれ
チャミとは、私の実家で飼っている黒猫の名前だ。12歳のばあちゃん猫である。5年前から腎臓を患っていた。
母から連絡が来たのは2019年8月8日。「チャミの状態がよくない。いつ死んでもおかしくないと言われた」
自宅作業をしていた私は職場に連絡し、大急ぎで荷物をまとめ家を飛び出した。
公園に捨てられた子猫たち
チャミと出会ったのは2007年、私がまだ高校生のとき。散歩から帰ってきた母が「公園に猫が捨てられとる」と言ったのがきっかけだった。
公園に向かうと、バームクーヘンの段ボール箱に捨てられた子猫が3匹、ピャーピャー鳴いていた。まだ捨てられたばかりのようで元気がよく、警戒心もまるでなかった。子猫たちは母猫を探し、公園の外の道路までヨタヨタ歩いていた。
実家は広島の片田舎で人は少なかったが、公園は角地にあった。車が曲がってきたら子猫たちは轢かれてしまうかもしれない、危険な場所だ。
私は衝動的に子猫たちを自宅に連れて帰ってしまった。「あんた猫なんて飼えんよ」「どうするんね」と母にどやされながら。
はじめは全員里子に出すつもりだったが、なかなか里親が見つからない。やっと1匹の里親を見つけたところで、残りの2匹はなし崩し的にうちの子になった。
1匹は白地に茶色いブチ模様のオス猫。名前は「きなこ」。もう1匹は真っ黒の長毛でメス猫。名前は「チャミ」。この話の主役である。
猫のいる暮らし
拾ったばかりの猫たちは生後2ヶ月ほどで、走るのもおぼつかなかった。実家の掘りごたつの机を外してビニールシートを敷き、猫たちの住処にしてやった。
最初は堀ごたつから出られなかったのに、あっという間にバリバリと音を立てながらビニールシートを登れるようになった。猫の成長は早い。
それまで我が家では猫を飼ったことがなかったけれど、飼い始めてわかったことは、思っていた以上に猫が感情豊かな生き物であることだ。しかも猫によって性格がぜんぜん違うのだ。
きなこ♂(雑種)
きなこはちょっとアホでビビリだ。
母は足音がとても大きいのだが、母がドタドタ近くを通るだけでビビっていた。しかし外に出るといっちょ前にケンカして帰ってくる。虫が出没したときにハッスルしまくるのはきなこの方だ。
きなこは人間かと思うほど表情豊かだ。カメラが大嫌いで、カメラを向けると必ずメンチを切る。器量はいいのに可愛い写真がなかなか撮れない曲者だ。長姉は「サカナクションの山口一郎に似てる」と言ってはばからない。
きなこはとにかく布団に潜るのが好きだ。リビングなど布団がない部屋では、洗濯して椅子に置いていたキッチンマットの下に潜り込んでいた。なんでもいいから潜りたいらしい。
私が実家にいたころは、私の寝る布団にいそいそと潜り込み、私の脇腹を枕にして寝るのが日常だった。
チャミ♀(雑種)
チャミは賢い。
ちょっと窓に鍵をかけわすれたら、目ざとく見つけて脱走する。リビングにいると「ドアを開けろ」と要求し、ドアを開けたら「ついてきな」と目配せし、廊下を渡り階段を3段ほど上がったところで「さぁ撫でて!」と頭を突き出す。複雑な要求をしてくるうえに、ちゃんと人間に伝えられるあたり、この子は賢い猫なのだなと思った。
チャミの鳴き声は「ホァ〜」。抱っこは大嫌いで膝にも乗らないが、撫でられるのだけは好きだった。
賢いぶんこだわりも強かった。自分から撫でろと要求したくせに、チャミのやめてほしいタイミングでやめておかないと「もういい!!」と猫パンチが飛んでくる。正直めんどくさい女である。しかし毛がフワッフワのサラッサラで、触り心地が極上なので許してしまう。
猫を飼い始めた当初に実家にいたのは父、母、祖母、私の4人。2人の姉は実家を出て一人暮らしをしていた。1年半ほどで私は進学で実家を離れ、その2,3年後に次姉が実家に戻ってきた。実は私より次姉のほうが猫と過ごしている時間が長い。
チャミ、腎臓を患う
チャミは若いころから腎臓の数値が悪くなりやすく、フードを変えたり薬を飲ませたりしていたことは聞いていた。しかし5年前、チャミが7歳のとき、ついに点滴をしに1週間に一度病院に通わなければいけなくなった。
母は毎週チャミを車に乗せて病院に連れて行っていた。「もう、病院行くってわかったら逃げ回るんじゃけぇ」と笑っていたが、大変だったと思う。母には頭が上がらない。
点滴に通いつつも元気に過ごしていたチャミだったが、にわかに風向きが怪しくなったのは2019年7月半ばのことだ。
「チャミがご飯を食べなくなった」と母から連絡がきた。添付されていた写真はそれまでと変わらないように見えたが、3.4kgあった体重が2.7kgまで落ちてしまったと書いてあった。
「ご飯を食べないってことは、そろそろ覚悟を決めなきゃいけないかもしれない」と思ったのを覚えている。
例年はお盆の帰省を避けていて、今年も帰省は9月にするつもりだった。その連絡に触れてお盆に帰省することを決めた。
チャミ、入院
帰省が4日後に迫った8月5日、「チャミが入院した」と母から連絡があった。腎臓の数値がかなり悪く、脱水症状もひどいらしい。不安に駆られ「私が帰るまでに間に合うかね」と送ったら「入院して点滴してよくなる子もいるし、そうでない子もいると言われた」と返ってきた。チャミはどっちだろうか……
腎臓がほぼ機能しておらず、尿毒素が頭のほうまで回っているのでしんどいのだろう、とのことだった。
それから気が気でない日々を過ごしていたが、8月8日の朝、運命のLINEがきた。冒頭のLINEだ。
「チャミの状態がよくない。もう点滴をしてもどうにもならないみたい。いつ死んでもおかしくないと言われた。今日の夕方に連れて帰る」
私は偶然、自宅で仕事をする日だった。
翌日から夏季休暇を取っていたが、いてもたってもいられず「すみません、実家の猫がいつ死んでもおかしくないと連絡が来たので先に帰省します。残りの作業は明日以降します」と連絡を入れ、大急ぎで荷物をまとめて電車に飛び乗った。
私はいよいよ、チャミの死と向き合わなければいけなくなった。
最期の2日間
長姉は8月11日に帰省する予定だったが、1日早めて8月10日に帰省すると連絡がきた。
東京の自宅から広島の最寄り駅までは、電車と新幹線を乗り継いで5時間ほどかかる。過去に何度も新幹線で帰省していたけど、この日の新幹線に乗っている時間は一番長く感じた。
「まだ名古屋」「まだ岡山」とツイートしながら「頼むから私が帰るまで持ってくれ」と涙ぐんだ。広島についたら、その足でチャミを迎えにいくことになっていた。
実家の最寄り駅につくと、父、母、次姉が勢揃いだった。両親は定年退職後で揃っていてもおかしくなかったが、次姉がいたのは驚いた。仕事を早退してきたらしい。「猫を迎えに行くのに家族勢揃いって変な感じだな」と思いながらも、チャミの入院している動物病院へ向かった。
病院の先生は「昨日の夜に流動食をスポイトで食べさせたけど、水で流さんと飲み込めんかった。嫌がってからねぇ。もうペーストでも飲み込めんと思う」と言っていた。
もうチャミには液体を嚥下する力も残されていないようだった。
少し話をしたあと、奥からチャミを連れてきてくれた。病院で見たチャミはぼんやりした顔だったけど、診察台に置いたら自分で座っていたので「意外と元気じゃん」と思った。
でもキャリーに入れて車に乗せている間、いつもなら時折「ホァー!」と鳴くのに全然鳴かない。やはりおとなしい。
実家につき、ペットシートを敷いたゲージにチャミを入れてやった。チャミはぼんやりと薄目を開けて、できるだけエネルギーの消費を抑えるかのようにじっとしている。
ところが数分後、廊下からきなこの鳴き声がした瞬間に様子が変わった。
ぐったりしていたチャミが急に色めき立ち、ヒョコッと顔を上げる。急いで歩き出そうとするも、後ろ足が動かずゲージを出たところで倒れこんでしまった。号泣する次姉と私……
4日間病院にいたから、きなこの声がして顔が見たくなったんだろう。12年ともに暮らした相棒なのだ。ベタベタしているわけではないけれど、寒い時期はいつも2匹くっついて寝ていた。
チャミは会いたそうなのに、当のきなこはなかなかリビングに入ろうとしない。家族が言うには、きなこはチャミが弱ってから近づこうとしないそうだ。薄情なやつめ、と思ったが、動物の本能的な何かがあるのかもしれない。
家に帰ってから数時間のチャミは、今思えば比較的元気だった。
次姉に下半身を支えてもらいながらも風呂場に行き、ドアが開閉するのに驚いて目をひん剥いたりもしていた。
私はその場を見ていなかったが、「ホァー!」と鳴く声も聞こえた。
チャミの声を聞いたのはそれが最後だった。
夜が深まってくると、チャミはずっとケージの中で横たわっていた。トイレには行けず垂れ流しなので、排泄に気づいたら敷いていたペットシートを変える。胃の内容物が混じったよだれも出ていたので、ときどき顔を拭いてやった。このときは、顔を拭くときに嫌がって身を捩るだけの元気はあった……
深夜の間は心配した両親がケージのそばに布団を敷いてときどき様子を見ていた。何度かケージの外に出ていたらしい。
翌日の午前中は相変わらずぐったりと横たわっていたが、「チャミ」と呼ぶとしっぽの先を揺らして返事をしてくれていた。午後には、名前を呼んでもしっぽが動かなくなっていた。
昨日の時点で「これ以上弱ることはないだろう」と思っていたのに、そこから少しずつ弱っていく。昨日できていたことが、今日はできなくなっている。
最期の瞬間が近づくのを感じながらも、「いつまでこの姿を見なきゃいけないんだろう」と思った。
前日に仕事をほっぽって新幹線に飛び乗ったので、実家でPCを開き仕事をしていた。午後に母が買い物に行ったのでチャミのそばで仕事をしていたら、カッカッと変な音を立てながら顔を揺らし始めた。
慌ててLINEで家族に連絡を取ろうとしたら、チャミが一気に嘔吐してしまった。私は完全にパニックになりながら「チャミが吐いた」とLINEを送った。
「すぐに帰る」と母から返事が来てから、泣きながらウェットシートで汚れた顔を拭く。チャミは顔を上げても嫌がらず、されるがままだ。
その日は朝から顎をクックッと小さく動かすことが頻繁にあって、もしかしたら吐き気があったけど吐く体力もなかったのかもしれない。
チャミは体を動かすことも鳴くこともできず、まぶたを閉じることもできず、ただひたすら呼吸だけをしていた。
そのまま夜になり、様子が変わったのは23時すぎだった。
お風呂に入ったあと脱衣所で体を拭いていたら、廊下から父に「もう上がったか」と話しかけられた。「まだもうちょっと」と答えると、「あのな、チャミが痙攣しとるみたいなんじゃ」と父は言った。
髪も乾かさず2階の両親の寝室に行くと、チャミを父、母、次姉が囲んで見守っていた。「さっき体を起こしたんよ」と母は言う。もう自力では動けないのにだ。
数分すると、チャミの後ろ脚がググーッと伸びて元に戻った。痙攣だ。朝から耳や目元が小刻みに痙攣してはいたけど、ここまで大きいのは初めてだった。
異常な空気を察知したのか、部屋の外できなこが「ニャオン!ニャオン!」と大声で鳴いている。「いまチャミ危ないけぇ、ちょっと待って」と声だけでなだめる。
チャミがまた手足を痙攣させながら、ゴボッと胃液を吐き出した。もう胃の中も空っぽだ。
チャミの命の灯火が、瞬間的に燃え上がっては消えそうになる。
苦しいのか、チャミは口を開けて身をよじっていた。見ていられなかった。
家族は泣きながら「チャミがんばったね」「もう楽になってもいいんよ」と声をかけている。私は何度も「チャミ」と名前を呼んだ。
何度か大きな痙攣をしたあと、スッ…… とチャミの動きが止まった。
呼吸が止まっていた。
チャミの命の灯火は、ついに消えてしまった。
チャミが亡くなったのは深夜だったので、亡骸を保冷剤とタオルで包んで両親の寝室に安置した。
翌日昼ごろ、長姉が帰ってきた。タオルにくるまれていたチャミの亡骸を見せると、「チャミ……」と言葉を詰まらせながら涙を流した。
夕方、亡骸を庭の椿のそばに埋葬した。この日はとんでもなく暑かったが、父が大量の汗をかきながら穴を掘ってくれたのだ。
仕上げに1人ずつシャベルで土をかけて、お花と線香を添えた。墓石のかわりに、長姉が小学生のときに作った石でできた謎のオブジェを置いた。
きなこのこと
このときは悲しい気持ちよりも、「もうチャミは苦しまなくていいんだ」と安堵した気持ちのほうが強かった。何よりも心配だったのは、きなこのことだ。
少なくとも私が帰省してから、きなこは様子がおかしかった。やたらと「ニャオン、ニャオン」と変な声で鳴いて人間の気を引こうとしていた。弱りきったチャミには決して近づこうとはしなかった。
一度だけ、私のいない間にチャミが過ごすゲージに来たそうだ。特に寄り添うでもなく、毛づくろいするでもなく、数分経つとどこかに行ってしまったらしい。そのときの写真を見たらめちゃくちゃ緊張した顔をしていた。来たはいいけど何をしたらいいかわからなかったのかもしれない。
チャミが亡くなる直前も、チャミのいる部屋には入ろうとせず、廊下でずっと「ニャオン! ニャオン!」と鳴き続けていた。「きなこはチャミが死んだら爆発すると思っていて、『危ないぞー! 逃げろー!』と言っていたのかもしれない」とアホなことを考えたりした。そんなことを考えるぐらい、きなこの鳴き声は必死だったのだ。
数日後に私は東京に戻ったが、きなこは何日か元気がなかったらしい。しかし一週間ほどたつと元気を取り戻したようだった。LINEで次姉に「きなこはどう?」と聞いたら、「ご飯くれって鳴くようになったし、気に入らないところを触ると抵抗するようになったよ」と返ってきたのは少し笑った。
チャミ亡き後
チャミの死から1ヶ月ほどたち、私自身はほとんどいつもの日常を取り戻している。それでもときどきチャミの写真を見返しては「こんなに可愛いのに死んじゃうんだなあ」とぼんやり考えたり、ちょっと泣いたりしている。
チャミはうちに拾われて幸せだっただろうか?
もっといいカリカリをあげていたら腎臓病を発症しなかっただろうか?
もっと写真や動画をたくさん撮っておけばよかった。
もっと元気な姿を見ておけばよかった。
後悔は尽きない。
でも、私はチャミがいてたくさん幸せな気持ちになれたよ。
めんどくさいけどキュートなチャミが大好きだったよ。
もう、あのフワフワの毛を撫でられないのは寂しいよ。
チャミ、12年間ありがとう。
天国で先に逝った祖父母に可愛がってもらえることを願うよ。
また会う日まで。