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『雨と花束』             あの夜を思い出す雨の日の朝②

今回の物語は、
これまで私が少しだけ作ってきた物語で
ずっと考えてきた、大切なことがテーマに
なっていました。
「忘れ去られていくものや生の証明」について。

消え去るものを記録に残そうとする大学生。
自分の生きた証を誰かに証明してもらう為に舞台に立つ女優。記録ではなく、忘れられない思い出がその人を生かすと考える青年。
忘れ去られることを恐れる駆け出しの歌手。
これらは全部、過去に私が上演した小さな物語
に出てきた人物たち。

私は、自分が生きた証明は、自分ではできないと思っていて、自分が死んだあと、誰かに「こうだった」と語ってもらう、もしくは覚えていてもらう、
つまり誰かの記憶の中に残ることが、生きた証明と思っている。

「全然わからない」と言われたこともあり、
私だけかと思っていたけど、
制作ノートに同じようなことが書いてあって、
救われました。
そして同じ考えをこんなに素敵な作品にされたことがとてもうらやましかったです。

誰の記憶にも残り続けられない川野雫。
愛する人にさえ忘れられてしまう。
確かに自分はここにいるのに誰にも見てもらえない。
過去の中に、1人、留まってしまう。
そんな孤独あるだろうか。 
私だったら耐えられない。
彼に、自分がこの世に物理的に生きることではなく、記憶の中で生きることを決めた。
私はその選択は間違っていないと思う。
誰かの記憶に残ることで、
彼はその人の中でずっと生き続けられるのだから。
生きた証が、刻まれるのだから。
もろろん、このモーテルと経営してたとか、そういう物理的な生の刻み方もあるけれど。
記憶の方が、ずっと、あたたかいと思う。

愛する人の記憶に残る、それが彼にとってどんなに嬉しいことか。私たちが彼をまだ忘れないでいることが、今はこんなにも嬉しい。私たちはきっと、雨が降るたび、彼のことを思い出すのだろう。

この前友達に、「私は一言で言い表せるような典型的な人間にはなりたくないが、そう言い表せなくて淡いのが、なんだか自分の存在も淡いようで寂しい」と伝えたことがある。

要するに、人の記憶に残りやすい「カラフル」な人間でありたいと思ったのだ。
存在自体がカラフルで印象に残る、とか、
他人の一生に残るようなものを生み出す、とか、
他人にいて良かったと思われる存在で覚えられたい、とか。
常に自分は誰かの記憶に残ることに価値を見出してきたんだと思います。
こうやって言葉を公の場で晒しているのも、その一環ですよね。

でも逆に、
記憶ってそんな単純なものでもないとも思う。

思い出って織物みたいだといつも思う。
覚えている人、覚えている思い出がたくさんあって、それぞれ覚えていること、感じたことが違って。
私が覚えていなくても誰かが覚えていることがあって。そうやって色の違う糸が折り重なって、
一つの記憶や、一人の存在になる。
過去を生きている時は見えないけど、
後から思い出して綺麗だったと気づく。

これも、今回のモーテルはすごくそうだったなって感じました。

だからこそ、「過去に縋ることは悪いことじゃない、思い出は今の積み重ね」と現在の雫さんが話した時、すごく心が救われた。
私という役のあの物語のハイライトは、きっとあのシーンだったと思う。

それから、記憶つながりでもう一つ。
私は、役者というお仕事も、記憶と生の証明にとても意味のあるお仕事だと思っている。

役者が演じる人間は、その場限りのもので、
もう二度と会うことはできない。永遠には残らない。けど、役者はその人間が生きた証を証明することが仕事で、観客の心の中で永遠にすることができる仕事だと思っている。
演劇そのものが、一つのだれかの走馬灯を旅することで、その思い出から観客は何か自分の人生の糧になるようなエッセンスを受け取る。
そうやって永遠になっていく。
そんな演劇だから、私は好き。

つぎは演劇のお話。


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