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デエビゴの花

彼は純喫茶の壁に頭をもたげ、しんどそうに息を吐いた。
茶色の木の壁と彼の土気色の顔と濃いクマがとても馴染んで一枚の絵のようだった。
いい縁を描いているカップのコーヒーが揺れる。
「寝てない。毎日毎日悪夢ばかり。もう嫌だ」
私はもう知ってると心の中で毒づきながら、分かったような表情を取り繕って頷いた。
「なんで、ずっと……もう何回も夢か現実か確認して……それで」
彼はものすごく頭を重そうにしてうなだれる。
「私にも連絡して確認してたね」
「うん、今は、今は?  今は現実か? ここは現実か?」
いや、別に現実だけど。私は困ったように笑ってつい砂糖を入れすぎたカフェラテをひと口含んだ。
「もうよくわからない! よくわからない! 気がついたらゼミ室にいるんだ。あのいつものゼミ室に。でもぼくはもうとっくに大学を卒業したし、一応就職もしてる。就職したはずなのにずっと……ずっと論文を書いてる。その中身も妙にリアリティがあって、でもどこかおかしいんだ。論理が破綻している。それに気がつきながら、ぼくは執筆を止められない。訂正ができない。だから卒業もできない。先生を困らせたくないのに赤字赤字赤字で返ってくる。永遠に返ってくる。しかも、提出期限になぜか間に合わない。もうやめてくれ!  卒業式も出たはずなのに。あれ?  君もいたよね?  なぜか卒業出来てないんだ! カレンダーが進んでいない。大学に行かないと、大学に行かないとってずっと家にいるんだ。でも、うっすらもしかしてこれは夢じゃないか?って気づくときがあるんだ。なのに、全然目が覚めない。頬を叩いても、食べ物を食べても、誰かとハイタッチしても、痛覚や味覚も、触覚もあるんだ! 頭がイカれそうだ! 」
ばんっと彼が髪をぐしゃぐしゃにしながら古いテーブルを叩いた。
コーヒーが揺れている。窓辺に置かれたアンティークのほこりも落ちた。
「……少し落ち着いて。大丈夫。今は現実だから」
「本当に今は現実か? 君は現実の君? ぼくは本当に大学を卒業したのか? ……ちゃんと契約社員か?」
「うん。今はまだ契約社員。成績が良かったら正社行けるって言ってたけど」
彼の表情が歪む、見たこともない怪訝な表情だ。そして、ふと目の彩度が落ちる。
「……わかった。これは夢だ」
「何言ってるの!?  本当に夢じゃないって……」
「本当にわからないんだ。眠れてないせいかな。いや、眠るための薬を出してもらったはずだ。さすがにおかしいって。たしか名前は……でぃご? 違うなデエビゴだ。すごく酷い名前だ。あれを飲んでからおかしい。もう飲まなくていいかな」
彼はくたくたのシャツの袖から節くれだった手を組んで目を瞑った。
「きっとあれのせいだ。あれのせいだ。あれのせいだ。だってぼくは人を殺したりはしない。……弱いから。なのに人の首を絞めてそれで……。刃物を持って暴れ回ったりもした。食器を割りまくったり、物を投げつけたり、あんなの。いや、ぼくなのかもしれない。本当のぼくはああしたかったのかも。いや、本当によくわからないんだ。だってすごく脂っこいあの数日お風呂に入ってないような人間の脂っぽさと鉄の匂いのする赤茶色の液体がこびりついてるんだよ。知らないうちに。そして、目の前に死体があるんだ。ぼくは人殺しなのかな。自分の舌を噛み切ろうとしたけどちゃんと痛いしどうも本当っぽいんだよ。ぼくは警察に行くべきだと思う。だから、最後に君に会いに来た。もう、さよならだ。ずっとこびりついているんだ。赤い茶色に乾いた血が。ずんと沈みゆくようだよ。ひどいよ、蜘蛛の糸なんてないんだ。蓮が赤いなんて知らなかった……お釈迦様は笑ってるよ」
憔悴しきった視線がまばらに私へ向けられる。とても見ていられるものではなかった。
「一緒に先生のところへ行こうか?」
「先生? いや、君の言う先生は精神科だろう? ぼくは刑務所に行った方がいいと思う。ぼくの先生は大学の先生しかいないよ」
突如彼はポケットから生のお札と小銭を取り出し、立ち上がった。あんなに粋で似合っていたロングコートに毛玉がついている。
「行かなくちゃ。今までありがとう」
「ちょっと!」
彼は走っていった。私は追いかけた。しかし、するりと彼は私の手からすり抜けて、どこかへ消えてしまった。道を、道を見る。いない。どこにも。
喫茶店のドアを掴む手が震えている。本当にいない。走る足音も聞こえない。
「なにこれ……」
私は泣きそうになりながら、席へ戻ってお会計をした。
そして、ふと蓋をしていたなにかに気がついてしまった。
デエビゴを勧めたのは他でもない私だ。なぜなら私がデエビゴを飲んでいるからだ。もちろん、悪夢も見る。毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。でも、私は彼にも周囲にも言わなかった。それが副作用だからだ。主作用があるから副作用もある。眠れるならそれでいいと耐えていた。彼に訴えられても、何も動じないで。ああ、もしかしてこれは夢なのかもしれない。いや、夢ではない。眦がとてもあつい。すごく涙が肌に染みる。それなのにこれは夢なのか? 呼吸がしづらくなって、一旦私はしゃがみこんだ。今日は花が咲くよ。私が咲かせる。いなくなったりさせない。ふふ、その花はねきっと私があなたを殺すから赤いの。あなたが苦しむなら私が殺して私も死ぬわ。夢なんかじゃない。風が来て、嵐も来るでしょ? そう私が嵐。お釈迦様なんていないわ。私が悪夢をつくっているんだもの。

「でぇびごーのはながさき! かぜをよび あらしがきたぁー!」

デエビゴの花はね、悪夢の華よ。

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