砂の街をあるいて
2019.04.28-2019.05.03
O’zbekiston
砂煙をたてて車が走り抜けてゆく。
ウズベキスタンは内陸国に取り囲まれた「二重内陸国」だ。最低二回、国境を越えなければ海に出られない。太陽が照りつける昼間は暑いが、朝と夜にはぐっと冷えこむ。ときおり風が強く吹き、空気は乾いている。
砂の街、というイメージに漠然と憧れていたけれど、実際の空気はこんなふうなのか、とブハラを歩きながら何度も思った。
旧市街を歩いているとモスクやメドレセ(神学校)が次々にあらわれる。ウズベキスタンに滞在した五日間で、とくにサマルカンドでは目がさめるようなうつくしいモスクやメドレセをたくさん見ることができたけれど、私はブハラの、イスマイール・サーマーニ廟から戻る途中で立ち寄ったアブドゥーラ・ハン・メドレセがいちばん印象的だった。ガイドブックで取りあげられているわけでもなく、観光客もそれほどいない朽ちかけたメドレセだったけれど、静かでとてもよかった。危なっかしい階段をおそるおそる屋上まで上って見下ろした街の景色も忘れがたい(上っていいのは二階までだったらしく、注意されてしまったが)。
どうしてもここに行きたい、これを見たい、という目的があってたどりついた場所より、思いもかけない、予定していたわけでもなく偶然に訪れた場所が心に残ったりする。私はいつもそうだ。
ウズベキスタンに行くことになったのは友人に誘われたからだ。
二〇一九年の黄金週間は十連休になりそうだ、とわかった昨年の秋頃には、話が決まっていた。どこにあるのか、どんな気候なのか、主に何を食べるのか、まったく何も知らないまま、声をかけられて迷わず「行く」と言った。
ついていったり、連れて行ってもらったり、会いにいったり、自分ではない誰かが行き先を決めてくれる旅が好きだ。行こう、行きたい、と自分が思う以外の土地のほうが、思いもよらない景色を見られる。
ホテルのやや心もとないWi-Fiに頼れる時間だけツイッターのタイムラインを覗いて、そのたびに、この四月から五月にかけての一週間を海外にいて、日本の大騒ぎから離れていられることに感謝せずにいられなかった。
それでも「改元」から完全に逃げきれたわけではない。タシケントで一日ガイドをしてくれた日本語が堪能な青年は「レイワ」を知っていた。「レイワ」のせいで連日大忙しだ、と彼は苦笑していた。
たしかに仁川からタシケントへ飛ぶ大韓航空の機内は日本人でいっぱいだった。現地は日本人だらけというほどでもなかったけれど、タシケントやブハラのホテルで知り合ったひとたちとサマルカンドで再会したりした。
ブハラでも、サマルカンドでも、建設中のホテルをあちこちで見かけた。たぶん、観光開発に力を入れている最中で、状況もおそらくどんどん変わっており、今年のあたまに書店に並んでいた『地球の歩き方』17’-18’年版の情報が追いついてないケースが何度かあった。
ギジュドゥバンの陶器とスザニの工房も見学ツアーが出来あがっていたし、果てしなく広がる荒涼とした丘を勝手に思い描いてたウルグベク天文台やアフラシャブの丘も、予想していたよりずっと観光地として整備され、欧米のツアー客が大型の観光バスで乗りつけていた。
数年後に訪れたら、さらに何もかも変わっているのかもしれない。
あっというまに日常に帰ってきて、湿度が高くお湯も水もふんだんに使える自室にいると、かつてシルクロードのオアシスだった街を歩いていたことが嘘みたいで、なんだか現実感がない。
モスクやメドレセのタイルの青も、色とりどりのスザニや陶器も、ブハラでホテルのオーナー一家が目の前で作ってくれたプロフも、何もかもが夢のように遠い。
バザールで買ったハルヴァ(人なつこいタクシーの運転手が私の荷物を目ざとく見つけて、繰り返し正しい発音を教えてくれた)が、疲れた体に甘かった。
(2019.05.06 第28回文学フリマ東京にて無料配布したペーパーより再録)
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