境界線がいつも見えない
季節の変わり目に明確な境界線などないのだけれど、だれに教わったわけでもなく十二か月を四等分して、三月から五月までが春、六月から八月までが夏、九月から十一月までが秋、十二月から二月までが冬、と区切っている。
智佳がその話をしたとき、響は自分もそうだと同意してくれた。くだらない、取るに足らないことばかりだったが、響とのあいだにはささやかな同調がいくつもあって、いまだにふとしたときに思い出す。
その根拠のない区分によれば十一月二十七日は終わりごろとはいえ秋になるが、四日後には十二月になるわけで、実際にはほぼ冬といっていい。旧暦の立冬だって十一月八日なのだ。肌で感じる体感温度より日付の数字に踊らされがちで、着込み方が足りずに寒い思いをすることが多い智佳も、今日は遠慮なく真冬の装備で出かけた。雲が重たげに垂れこめ、雨が降るかもしれないという天気予報が出ていたし、早朝から海風にあたるのだから防寒するに越したことはない。
あのときはたしか薄着だった。少なくともタイツははいていなかった。二人とも紺のハイソックスで膝を出し、寒い、寒いと響が終始口にするので、なるべく寄り添って腕をくっつけ合って歩いた。
今朝、久しぶりに響の夢を見た。有楽町線によく似た地下鉄の車内で、ななめ前に腰掛けていた響と目が合った。響も智佳も高校の制服姿だったが、智佳の周囲には職場の人やこの数年で知り合った人々が群れていて、その輪のなかには郁もいた。夢の中では、皆、クラスメイトという設定だった。
「きょうちゃん」
智佳は立ち上がって響の前まで移動した。響はつりがちの大きな瞳で智佳を睨んだ。
「きょうちゃん、あの」
「遅いよ、ちか」
響の声は聞き違えようがない。名は体をあらわす、硬質でよくとおる声。
「ちか、着く前に、あたしに言うことがあるよね」
「……謝ってもいいの、きょうちゃん」
「いいよ」
「ごめんなさい」
表情をやわらげた響がうつむいて笑い、夢みたいだな、と思った瞬間にアラームが鳴った。いつもよりだいぶ早い時刻、夜も明けきらない六時前に目覚ましを設定していたせいで、普段なら目覚める前に忘れていたはずの夢の光景が、鮮やかに残っていた。
「あ、ガンダム」
郁がはしゃいだ声をあげ、智佳も車窓の外に目をやった。地下鉄沿線の智佳の住まいからは豊洲駅に出るほうが楽なので、新橋駅経由の郁に付き合わずに市場前駅で待ち合わせたほうが無駄はなかったのだが、なんとなくモノレールに長く乗りたくて郁に合わせた。あのとき、十七年前の十一月二十七日には、ゆりかもめはまだ有明までしか走っていなかった。
「初めて見たな、ガンダム」
「わたしもです。豊洲じたい、今日が人生二回目ぐらいなんじゃないかと」
「わたしも二回目……いや、三回目か」
郁は明るい色のコートに暖かそうなマフラーをしっかり巻いていた。よく似合っている。郁なら、どの季節でも自分の皮膚感覚を信じて適切な服を選びそうだな、と智佳はこっそり思う。
中川郁は一年ほど前に智佳の勤める文房具メーカーの総務部に派遣されてきた。智佳より五歳年下で、人なつこく、居合わせた社員に「最近どう?」と話しかけられると智佳なら世間話の話題には選ばないような映画の話をして、相手の反応が鈍くても気にしていないようすだった。郁が口にする映画のタイトルの八割ぐらいは智佳も知っていて、つい耳がそちらに向いた。一方的に好意を持っていたものの、話しかける機会も口実もなく、郁から郵便物を受けとるときや内線がかかってきたときに愛想よく対応するのがせいぜいだった。
その距離感が変わったのは今年に入ってからだ。そうでなくとも年度末であわただしい三月の最終週、二月半ばから騒がれはじめた新型コロナウィルス感染症の流行がどんどん大ごとになり、いよいよ東京もロックダウンか、という憶測が乱れ飛び、智佳の勤務先でも時差通勤や在宅勤務が導入されるという話で社内がざわついていた。残業もなるべく控えるように言われ、会社帰りの寄り道などもってのほかという空気のなか、智佳はこっそり映画を観に行った。三月二十六日の木曜日、新宿三丁目のバルト9で、平日十七時半以降の上映は料金が割引になる「夕方割」を使った。観たのは『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』で、さすがに空いていた。こんなときにこんな映画を観ようなんていう馬鹿はやっぱり少数派なんだなと智佳は思い、映画に満足して劇場を出たところで郁にばったり会った。
一瞬、「職場の人間に見つかってしまった」というきまりわるげな間があった。すぐに郁が開き直ったような笑みを浮かべて「お疲れさまです」と会釈した。
「こんなタイミングでこんな映画を観に来るのはわたしくらいかと」
「まったく同じことを思ってた」
「でも、面白かったですね。今にも緊急事態宣言が出そうで、さっさと家に帰っておとなしくしてろって言いつけられているときに、こっそり観るにはうってつけのお行儀の悪さで、最高でした」
郁の言葉に智佳は深く頷いた。二人ともその場で感想を溢れさせそうになったが、一刻もはやく客を全員出してしまいたそうなスタッフに気づいてあわてて歩きだし、マルイアネックスを出てすぐのところにあるスターバックスコーヒーにどちらからともなく吸い込まれた。
翌々日の土曜日には都内のスターバックスの店舗もTOHOシネマズもいっせいに休業する、その直前の異様な緊張感もあったのだろう。業務連絡以外の話をしたことがなく、まして職場の外で差し向かいで話すのは初めてだったのに、智佳と郁は何年も前から友人だったようないきおいで話し込んだ。
こんなこと誰にも言えないけれどわたしは今週毎晩出かけている、一昨日は上野の森美術館でVOCA展を観て昨日は神田川で咲き残っている桜を見た、楽しみにしていたライヴがつぎつぎに中止になってしまって、やっていられないのだ、と智佳はせつせつと訴えた。郁は智佳が好きなミュージシャンを知りたがり、よく聴くのはイギリスのバンドが多くて、オルタナ系とかトリップホップとか、と智佳は答えた。智佳が具体的に名前を挙げたバンドのうち、郁はレディオヘッドとケミカル・ブラザーズしか知らなかったが、智佳が熱心に洋楽を聴き、ライヴにも行く人物だということには興味を持ったようだった。
「わたし、柏木さんと話してみたかったんですよ。いつもちょっと変わった色のネイルをしてるし、仲良くなったら面白いんじゃないかって」
「ああ……どうも」
よく見てるな、と智佳はおどろき、鉄色に塗った爪の表面を指の腹でさすった。顔面に化粧を施すことは面倒でも、爪を塗るのは好きだった。
「柏木さん、単独行動が多いじゃないですか。マイペースな感じで、いいなって」
「いやいや、中川さんみたいにすぐ溶け込めるコミュニケーション能力がないだけだよ。でも、映画はひとりで観たりするんだね」
「前の派遣先にミニシアター系が好きだっていう子がいて、誘われて一緒に『チョコレートドーナツ』を観たんですよ。で、わたしが派手にボロ泣きしたんで、あからさまに引かれちゃって。なんでそこまで? って……そのあと『キャロル』も観にいく約束してたのに、みえみえのドタキャンされちゃって。なんかね、これは勘繰りすぎなのかもしれないけど、わたしと女同士の恋愛映画を観るのが怖かったんじゃないかって気がするんですよね。確かにわたしはその子の容姿がめっちゃ好きだったので、それがバレてたのかも、でもそれにしたって同僚としての礼儀は守りますよ。まあ『キャロル』でも大号泣したから結果的にはその子と観なくて正解でしたけど。それ以来、人と映画を観るということに慎重になりまして。お昼くらいならだれとでも行きますけどね」
「いいよね、『キャロル』、わたしもすごく好き。『チョコレートドーナツ』も良かったよね。中川さんがそのへんの社員と話してるのが聞こえてくるときがあって、映画の趣味が合いそうだなあ、って実は前から思ってたんだ」
「早く言ってくださいよ。柏木さんとなら、一緒に映画観たいです」
にこにこしながらそう言われて、智佳はどぎまぎした。
「今日はもう、一緒に観たようなものなんじゃ」
「そうか。そうですね」
閉店時間だからと追いたてられるように店を出てJRの改札を抜けたところで、じゃあまた明日、気をつけてね、と別れた。急に空腹を感じて、夕食も摂らずにコーヒーだけで話に夢中になっていたことに今さら気づき、学生でもあるまいし、と智佳はおかしくなった。
翌々週には緊急事態宣言が発令され、智佳が所属している営業部では交代で在宅勤務をすることになった。総務部も似たような勤務体制らしく、派遣社員の郁も社員と同じ処遇だと聞いて、ひそかに気を揉んでいた智佳はホッとした。互いに週に一、二回の出勤になり、出勤日があまり重ならなかったため、智佳と郁はしばらく顔を合わせなかった。
ひとり暮らしで、出勤しても部署に一人きりで黙々と業務をこなすだけの、他人との会話のしかたを忘れてしまいそうな日々に、智佳は毎日のように郁と個人的なやりとりをしていた。LINEも交換していたが、もっぱら会社のグループウェアを使った。仕事の合間に思いついてメッセージを送るのは気軽で、智佳もやりとりを途絶えさせずにすんだ。
「LINEはどうしても構えてしまって用事がないと送れないし、どうでもいいようなことを言える相手もいないしで、郁ちゃんがいてくれて有り難かった」
緊急事態宣言が解除され、一週間のうちの出勤と在宅勤務の比率が逆転した夏のころ、おそるおそる外にランチを食べに出たとき智佳は郁にそう言った。こちらこそです、わたしもひとり暮らしなんで、と郁は笑った。
「巣ごもり」期間中、ライヴに行けない悲しみを呼び起こされるので好きなバンドの音や映像には触れる気にならず、智佳は登録して使わないまま料金だけを払いつづけていた動画配信サービスで映画を観るようになった。気になっていたものの関連作品が多すぎて敬遠していた『アベンジャーズ』のシリーズに手を出し、長いこと後込みしていたのが嘘のようにあっというまにMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)にのめりこんだ。『アベンジャーズ/エンドゲーム』が公開されてシリーズが一段落してから一年経っており、熱狂も興奮もいったん落ち着いてしまった今ごろになって何だってこんなことに、と自分の間の悪さを悔やみながらも話さずにいられない智佳を郁は面白がり、話に付き合ってくれた。シリーズをリアルタイムで追いかけ、東京コミコン皆勤だという郁がマイケル・ルーカーやクリス・ヘムズワースを生で目撃した体験談を、智佳はおおいに羨みながら楽しく聞いた。
MCUをはじめ映画のことが智佳と郁の主な話題だった。郁は幅広く何でも観るが最近は女と女の映画が好きで、この数年でいちばん良かったのは『ハスラーズ』だという。郁は自分の好きなものについてとてもオープンに話した。自分の趣味嗜好をどこまで開陳するか、相手の知識の深さや好みの方向性を測って駆け引きしてしまう智佳には、郁の直截さがまぶしかった。
郁が「アセクシュアル」という語を持ちだしたのも、映画の話をしていたときだった。『アナと雪の女王』のエルサを評して「アセクシュアルではないかと思っている」と言った郁は、「でもわたしもアセクシュアルだから、願望が入っているかもしれない」と付け加えた。その語に聞き覚えはあったが正確な意味を知らなかった智佳は、スマートフォンでその言葉を検索した。これはカムアウトというやつでは、とちらりと思い、いやそんなに大げさにとらえることでもないのかも、と思い直し、その日は深夜まで「アセクシュアル」というキーワードでヒットした記事を読むのをやめられなかった。読みながらずっと、響のことを考えていた。
豊洲市場で朝ごはんに海鮮丼を食べてから出勤する、という計画を智佳が郁から聞かされたのは、「GoToトラベル」に続いて「GoToイート」キャンペーンが開始された十月末だった。智佳も郁もキャンペーンには懐疑的だったが、百と二百のあいだを行き来する東京都の新規感染者数に慣れてしまい、そもそも毎日神経質に数字をチェックしなくなり、事態は小康状態を迎えたような気分になっていた。同時に、批判したところですぐにキャンペーンが消えてなくなるわけでもなし、少しくらい使って得をしてもいいのではないか、という雰囲気にものみこまれていた。せっかくだから、普段なかなか行かないような高級レストランでおいしいものを食べたい、と話していたとき、そういえば、と思い出したように郁が朝食会に誘われていると言いだした。
「豊洲市場、行ったことあります? 智佳さん」
「ない」
「わたしもです。築地は一度行ったことあって、今回声をかけてきた人に連れて行ってもらったんですけど」
声をかけてきたのは郁が以前に派遣されていた会社の人たちで、例のミニシアター好きの社員も含めた課の全員で、課長引率のもと築地市場を訪れたのだという。ミニシアター好きの社員と課長が郁の現状を案じがてら、久しぶりに会わないか、と連絡してきたらしい。
「いいなあ。遠足みたいで楽しそう」
「智佳さんも来ます?」
「えっ、わたし、部外者だし」
「そういうの、あんまり気にしない人たちなんですよ。わたしももう部外者だし、今の会社の人も連れていくって言ったら喜ばれそう。というか、二対一だと正直わたしが億劫なので、智佳さんに来てもらえると助かります」
見知らぬ人と早朝から食事をすることへの気後れはもちろんあったが、出勤までの短い時間だし、大人の社会科見学っぽいことをしてみたいという好奇心もあり、智佳は同行させてもらうことにした。実のところ、知らない人々の輪に突然混ざることも、市場での朝ごはんも、智佳のこれまでの人生にはなかったシチュエーションなので、未知の体験へのわくわくがあった。
しかし十一月に入って感染者数が増え、感染拡大だとか第三波だとかいう言葉が飛び交いはじめて、東京都の新規感染者数が五百人に達し、警戒レベルを一段階上げると都知事が会見するに至って、朝食会は「いったん中止にして、状況が落ち着いたらいずれ必ず」ということになった。豊洲市場で百人以上の感染が報告されているというニュースも追い打ちをかけた。
賢明な判断だということは智佳もよくわかっていたが、遊びにも行けずに仕事ばかりの日々の息抜きとして楽しみにしていたイベントが流れてしまったことは寂しく、ライヴの予定がすべてなくなった春先の虚無感を思い出しもした。郁の前では出さないように気をつけていたつもりだったのだが、態度に滲んでしまっていたのかもしれない。あるいは、郁も智佳と同じ気持ちだったのか。
「二人だけでも行っちゃいませんか、豊洲。市場には行かなくてもいいし、何なら朝じゃなくて、昼間でも夜でもいい、有休とってがっつり遊びましょうよ」
郁の誘いは魅力的だった。ライヴもなく旅行にも出かけられず、休みをとったところで使うあてがないので、智佳は有給休暇にほとんど手をつけておらず、年度内に最低五日はとるようにと上司から言い渡されていた。迷わず、智佳は休みを申請した。
眼前に現れた豊洲市場は大きくて四角い無個性な建物で、智佳が「市場」という言葉から連想するイメージとはだいぶ違った。市場前駅の改札を出て、二手に分かれる通路の「青果棟」の案内板が出ている方へ進む。
郁は切りっぱなしのボブを耳にかけていて、インナーカラーのダークブルーが目を惹いた。智佳の視線に気づいたのか、郁はうれしそうに髪をかきあげて見せた。
「青、職場でバレてなかったですか?」
「うん、まったく。自然光の下だと目立つのかなあ」
「そうですね、室内だと意外とわかんないかも。智佳さんも、職場にいるときとけっこう印象違いますよね。かっこいい」
「え、そうかな」
仕事中は一応オフィスカジュアルらしきものを意識しているので、デニムにスニーカーの姿で郁と会うのは初めてだったし、マニッシュに見えるのを期待してネイルとアクセサリー以外はメンズのものを身に着けているが、「かっこいい」と言われたことはあまりなく、智佳は反応に困った。
「学生のころ、友だちと休日に会うとき私服にびっくりしませんでした?」
「ああ、わかる。制服姿しか見ていないから、新鮮というか」
「そうそう、しかも毎日顔合わせてるのに、休みの日にまでまた会うなんて、どれだけ仲良いんだって感じじゃないですか。今の我々もそうなんですけど」
「ほんとだよね。しかも朝ごはんから一緒って」
「朝ごはんは学生のころにもなかなかないですよね」
「……わたしは、一回だけあったかな。豪華海鮮丼ではなかったけど」
十七年前の十一月二十七日は木曜日だった。
ほんとうは週末にお泊り会をしたかった。二十六日の智佳の誕生日と、二十七日の響の誕生日を合わせて十一月二十七日にお祝いをするのが高校生になってからの二人の恒例になっていて、二人揃って十八歳になる高校生活最後の誕生日はとくべつに祝いたかった。
ちょうどよく響の家族が金曜日の朝から家をあけて日曜日の夜に帰ってくるというので、それなら学校からそのまま響の家に直行して一晩中遊べる、日付はずれてしまうけれど、そのぶん時間を気にせず思いきりパーティーしよう、と二人ともすっかりその気になっていた。水を差したのは智佳の母で、もともと友だちの家に泊まることも響のこともよく思われていなかったのだが、大学入試を控えたこの時期に何を馬鹿なことを、と智佳はさんざん叱られ、諦めざるを得なかった。
それなら二十七日をめいっぱい使おう、もう学校なんかサボって遊びに行こう、と先に言いだしたのがどちらだったか、ともかく響と智佳はその新しい思いつきに夢中になった。親にはもちろん何も言わずに一時間はやく家を出て、いつもは暗黙の了解で同じ時間の電車の同じ車両で落ち合うところを永田町駅のホームで待ち合わせ、有楽町線に乗り換えた。
「ちか、ごはん食べてきた?」
響が髪を耳にかけた。あらわになった右耳には、耳たぶに三つとアウターコンクが一つ、四つのピアスが光っている。長いまっすぐな黒髪に隠れたままの左耳にはアンチトラガスがあるのを智佳は知っていた。
「食べてない。きょうちゃんは?」
「あたしも。おなかすいちゃったよ」
「着いたらなんか食べよう、何にする?」
「駅前になんかあるでしょ」
豊洲駅で地下鉄を降り、地上に出て適当に歩いた。晴海通りを渡ってしばらく進んだところにマクドナルドを見つけて、二人は迷わず入った。当時の響と智佳にとっては、食べものの味よりも安いことと店に長居ができることが優先事項で、勝手知ったるハンバーガーショップはその点安心だった。
ソーセージエッグマフィンとハッシュポテト、ホットケーキをトレイに載せてテーブルにつき、時計を見ると一時間目が始まるくらいの時刻だった。授業をサボったのは、そのときが最初で最後だった。
青果棟の建物には入らずに一階に下りると、天ぷら屋・蕎麦屋・寿司屋と飲食店が並んでいる。来るのが初めてとは思えない確かな足どりで智佳を先導してくれた郁は、手回しよく寿司屋の席をインターネットで予約してくれていた。行列ができる人気店だと聞いていたが、店内は空いていた。
おいしそう、と歓声をあげて写真を撮る郁にならって、智佳も「おまかせ握り」のセットにスマートフォンのカメラを向ける。
「朝ごはんからお寿司って、めちゃくちゃ贅沢ですよね。うわあ、おいしい」
感激している郁のとなりで、あらかじめ醤油が塗られたマグロの握りを口にはこびながら、智佳はふと、この場にいる自分をひどく不思議に感じた。朝の市場で職場の同僚とカウンターに並んで握り寿司を食べている。ファーストフード店の小さなテーブルで響と向かい合っていたときには、思い描けなかった未来だ。
いったん駅へ引き返し、今度は水産仲卸売場棟と水産卸売場棟を目指した。物販エリアで船用品を珍しがり、マグロの模型の前で写真を撮り、通路に設けられた大きな窓から場内のようすを見学した。
「築地はこんなふうに上から見下ろすんじゃなくて、ああいう場所のすぐそばを通れるんですよ。ターレが目の前を走っていったりして」
「ターレって、さっき物販に行く途中に展示してあったやつ?」
「そう、あれです。築地に連れて行ってくれた前の職場の課長は、豊洲にも何度か来たことがあるらしいんですけど、築地のほうがぜんぜん良かったっていうんですよね。臨場感があって。でもわたしはこういうふうに、観光客は観光客、ってきっちり線を引かれているほうが、安心してしまうところがあって」
「ああ……わかるかもしれない。不健全だけど」
「実際に働いている人たちがどうなのかはわからないし、市場の移転にも賛成ではなかったですけど」
「そうだよね」
築地市場の豊洲への移転を公約に掲げた現職の都知事が、初めて選出された四年前も、対立候補に圧倒的な大差をつけて再選された今年も、智佳が都知事選に投じた票は死票になった。
「この期に及んでGoToってなんだよ、とかいいながら仕事サボってGoToイートしてるしね」
「ほんとに」
ひととおり見て回り、昼ごはんをどうしようか、という話になった。物販エリアで見かけた弁当がおいしそうだったので、買ってどこか外で食べたい、と郁が提案した。
「お天気がもってくれれば、なんですけど」
「食べられそうな場所があるかな、先にそっち確認したほうがいいかも」
二人はひとしきりうろうろして「屋上緑化広場」という表示を見つけ、広場ならば、と望みをかけたが、屋上行きのエレベーターの脇には大きく「飲食禁止」の注意書きが貼られていた。
「……あっ、だめだ。残念」
「でも、せっかくだから上がってみません?」
上がってみるとそこは思いのほか広く、見晴らしのよい場所だった。対岸にそびえる高層のビル群を、郁が指した。
「あれ、オリンピック村らしいですよ」
「村って感じじゃないよね、って、そりゃそうか。めっちゃタワーマンションじゃん」
「オリンピックが終わったら分譲するとかいう話でしたよね。ていうか、オリンピック、どうするんでしょうね」
「にしても、郁ちゃん、あれがオリンピック村だとかよく知ってるね」
「グーグル・マップで出てきますよ」
郁がスマートフォンの画面を智佳にも見せた。
「ほんとだ。じゃあ、あの山は? 富士山かな」
「……わかりません」
「この、目の前の川は?」
「すみません、それもちょっと……ううん、晴海運河……だと思うんですけど、表示が微妙で……晴海埠頭がそこにあるから、あっちは海なのかな、とすると河口? ということは川?」
運河と川の違いがわからない、とぶつぶつ言いながら郁はスマートフォンをタップしている。
「河口みたいに、海水と淡水が混ざっている場所のこと、何て言ったっけ」
「汽水域ですか?」
「そう、それだ。海と川との境目だって曖昧なのに、川と運河の違いなんて、もっとわからないよねえ」
眼下に穏やかに横たわる水面を眺めて、智佳はつぶやいた。
運河を見たい、と響が言いだしたのだ。
午前中いっぱいをマクドナルドでつぶし、朝凪橋の上から水面を指して、智佳は言った。
「これが豊洲運河だよ」
「は? 川じゃん」
「見た目は完全に川だね」
「……いや、マジでただの川じゃない? あたしの求めてた運河じゃない……」
響が納得しないので、智佳は駅のほうへ引き返して春海橋公園へ連れて行った。晴海運河をのぞむ公園は、橋の上よりはいくらか眺めがよかったが、ベンチに腰掛けた響は足を幼児のようにぶらぶらさせて、不服そうにしていた。智佳は響の横顔を盗み見た。きれいな子だな、と思う。
響は小柄で華奢な手足をしていて、運動神経が良く、歌がとても上手かった。高校一年の文化祭の打ち上げで歌った「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」でクラスメイトを湧かせ、なんとなく一目置かれていた響だが、人見知りが激しく内弁慶な気性のせいか、友人が多いほうではなかった。
歌に関しても、合唱コンクールでソロをとったり、文化祭で軽音の発表に参加したりといった人目をひく行動は一切せず、カラオケで智佳に聴かせるだけだった。智佳はそれをもったいなく思うと同時に、自分だけの特権のようにも感じていた。あのころ流行っていた歌の幾つかは、今でも智佳のなかではオリジナルでなく響の歌声で再生される。
「思ってたのと違ったわ……」
「だから最初に言ったのに、がっかりするかもよって」
智佳は家族旅行で北海道を訪れたことがあり、小樽運河に抱いた幻想を膨らませすぎて拍子抜けする、という体験を一足先に済ませていた。運河といっても川だし、そこまで期待して見るほどのものではないかもよ、と警告したのだが、響がどうしても見たいとこだわるので、都内の運河を調べて豊洲にたどり着いたのだった。
「きょうちゃんはどんなのを想像してたの」
「ヴェネツィアっぽいっていうか、ほら、ディズニーシーのヴェネツィアン・ゴンドラみたいなさ……ああいうのって、どこに行けばあるの?」
「それは……ディズニーシーでしょ」
智佳の返しに、そうじゃなくてさ、と憤慨しながら響は笑いだし、つられて智佳も笑った。前の年の夏休みに、東京ディズニーシーで一日中遊んだときのはしゃいだ気持ちがよみがえって、笑いはいつまでも引かなかった。
そのあと、二人は豊洲埠頭へつづく何もない道を歩いた。だだっぴろい更地の向こう、晴海運河をはさんだ対岸には高層ビルやクレーンがまばらに見え、ひとけのない道沿いの建物は朽ちてさびれた廃墟のように見えた。「ゆりかもめ 有明―豊洲間 平成十七年開業予定」という看板がかかっていて、行われている工事がモノレールの延伸だということを示している。暇だったこともあってだらだらと歩きつづけていた響と智佳は、埠頭に行き着かないうちに立ち入り禁止の柵に足止めされた。
「海まで行けるかと思ったのにな」
ゆく手にあるはずの海を見ようとするように、響は前方に眼差しを投げた。
「汽水域だっけ、淡水と海水が混ざり合ってる、みたいなのって落ち着かない」
「……そうかな」
智佳はむしろ、そういう曖昧さは好ましく感じられたので、控えめに異議をとなえた。落ち着かない、と響は繰り返した。
「川だと思っていたらいつのまにか海になってた、みたいなの、苦手。ここまでは川、ここからは海、ってはっきりしてほしい。境界線が見えないのはこわい」
その言葉はなぜか智佳を動揺させた。響に話さなければと思いつつ、話せずに抱えているものの存在を、見透かされたような気がした。
あのとき響と智佳があてもなく立ちつくしていた場所は、いま智佳と郁が佇んでいる屋上広場のすぐ近くだったのではないか、と今さらながらに智佳は気づいた。そこにはかつて東京ガスの工場や東京電力の火力発電所があり、土壌の汚染や溜まった地下水などのさまざまな問題を孕んだまま、築地から市場が移転されたのだった。
魚の臭いから隔離された見学棟や整備された屋上広場にいると、足もとに埋まっているもののことなど意識せずに過ごしてしまう。感染症のクラスターが発生しているのを都が隠蔽している可能性がある、というニュースを知っていながら、智佳も郁もおいしいおいしいと言い合ってへいきで寿司を食べた。
「高校生のときにもここに来たことがあったのを、思い出してた。このへん、なんにもなくて、でもそのときもここで汽水域の話をしたよ」
「智佳さん、よく覚えてますね」
「忘れられないんだ。そのとき一緒にいた子のことを、ずっと忘れられない。関係がこじれて音信不通になって、もう十年ちかく経つのに」
「立ち入ったことを訊いてもいいですか」
礼儀ただしく訊ねる郁に、智佳は頷いた。
「そのひとは、お付き合いしていた人ですか」
「一般的な意味での恋愛だったかどうかは、わからない。いわゆる肉体関係みたいなことは、一切なかったし。ただすごく特別で、あきらかに他の人とは違った」
響は恋愛や性愛を拒んでいて、それを明確に態度にあらわしてもいた。それでいて、智佳に向けてきた感情は、智佳が受けとめきれないほどに濃密だった。智佳には、響ほどはっきりした恋愛への嫌悪感はなかった。そもそも「恋愛」というものがわからなすぎて、好きとか嫌いとかいう価値判断を持つはるか手前で立ちすくんでいた。智佳にとって「恋愛」は銀河系やブラックホールのようなもので、百科事典で通りいっぺんの知識を得ることはできても、実感を伴う理解にはたどりつけそうになかった。
郁から「アセクシュアル」という語をもたらされ、それについて調べるうちに、響や、もしかしたら自分も、これだったのではないか、と智佳は思うようになった。アセクシュアル当事者たちが語る内容には、知っている、共感できる感覚が幾つもあった。恋愛から隔絶された世界を生きているのはやはりわたしだけではないのだ、と智佳は安堵をおぼえたものの、自らをそこに定義づけることには躊躇を拭えなかった。智佳の「セクシュアリティ」と呼ばれるものは掴みどころがなく、特定のカテゴリにあてはめられるだけの強度のある輪郭を持っていなかった。
それでも何ひとつ説明できず、それゆえにだれにも話したことがなかった響のことを郁に打ち明ける気になったのは、「アセクシュアル」を名乗った郁になら少しは伝わるかもしれないと思ったからだった。
「どういう名前の関係であれ、そんなに長いこと想いつづけているって、すごいことだとわたしは思うんですよ。わたしにはだれかをそんなに想った経験がないので、正直、ちょっと羨ましいような気持ちになっちゃいました。失礼ですよね、ごめんなさい」
「そんなことはないけど……郁ちゃんは、その、だれかと付き合ったりしたこと、ないの」
「仲良くなった人に付き合ってくれって言われて、嫌いではなかったから受けたことはありますけど、わたしの気持ちのうえではそんなに……むしろ『お付き合い成立』した途端に、電話したりメールしたり会ったりっていう定期的なコミュニケーションが義務になって、なんだこの制度は、と戸惑っているうちに破綻しました。話していて面白い人だったので、結果的に関係が完全消滅してしまったのは残念だったけど……とにかく、一定期間謎の契約を結んでいたという感じでしたね。いま、智佳さんとこうしているみたいな楽しさもなかったし、好きっていうなら智佳さんのほうがずっと好きです」
あっけらかんと言われて、智佳は耳のあたりに熱を感じた。
「ええと……ありがとう」
「すみません、好きなものは好きっていうのを黙っていられないほうで」
「でもそれは恋愛の『好き』じゃないんだよね」
「そうですね、違うと思います」
智佳はわずかに逡巡したあと、ちいさく息を吸い、思いきって言った。
「……わたしの『好き』は何なのかなあ。自分のことなのに、自分でもぜんぜんわからない。郁ちゃんみたいに、自分はこれ、ってはっきり言えたらいいのに、っていう気持ちもあるんだけど、心のどこかではっきりさせずにいたいって思ってるんだよね」
「そういうセクシュアリティもありますよね。『クエスチョニング』っていうのがそれに近い気がします」
「あるんだ!」
郁からあっさり答えが返ってきて、しかも聞き慣れない新たな語が飛び出したことにおどろき、智佳は目をみひらいた。
「あっ、もちろん、何も名乗らなくてもいいというか、状態に無理に名前をつけなくてもいいとは思うんですけど。もしも名前が必要なら、ありますよ、という感じで」
「待って、メモする」
「あとで良さそうな記事を見つくろって送りましょうか」
「え、うん、お願いします」
それにしてもおなかすいてきましたね、といって郁は腕時計を見た。
「お弁当はあきらめて、移動しようか」
「そうしましょう」
昼ごはんは、市場前駅のすぐそばにある江戸前場下町という商業施設で海鮮のおでんと瓶入りのパフェを買って、屋外のフードコートで食べた。
朝食の寿司を予約していた以外はきっちりした予定をたてておらず、ユナイテッド・シネマ豊洲で映画でも観ようかなどと話していたのだが、いざ上映スケジュールを確認すると、二人の好みの映画はあいにくかかっていなかった。周辺で遊べそうなスポットを検索しているうちに、智佳がデジタルアートを体験できるチームラボプラネッツに前から行ってみたかったことを思い出し、郁も乗り気になった。幸い、入場の予約はどの時間でもすぐに取れそうだった。
新豊洲駅を目指してゆりかもめ沿いにまっすぐゆけばよく、一駅しか離れていないので歩いていった。近づくにつれて智佳は風景に既視感をおぼえ、目的地が豊洲PITの近くだということに思い至った。
「さっき初めて豊洲に来た十七年前の話をしたけど、二回目は三年前だったんだ。そこをちょっと行ったところの、豊洲PITっていうライヴハウスにライヴを観に来て……」
ちょうど今ぐらいの季節、というか、日付も同じだった。豊洲を訪れた三回が三回とも十一月二十七日だなんて、と智佳はあらためてびっくりする。今回は四人で計画していた段階で、給料日のあとの金曜日がいい、という理由で決まった日取りだったので、十一月二十七日になったのは偶然だったのだが、それにしてもひどい。
三年前の十一月二十七日は、月曜日だった。うまく仕事を切り上げて定時ぴったりに退勤できるか、一日中気が気でなかった。首尾よく職場を出て、いつのまにこんなライヴハウスが出来たんだ、知らなかった、と思いつつ道順を調べ、行ったことのない場所へ行くとき特有の心細さと高揚が入り混じったふわふわした心地で夕闇のなかを急いで、どうにか開演に間に合った。
重い防音扉を押し開けてフロアに滑り込み、少しでも快適な位置におさまろうとしているとき、ふと見たことのあるカーディガンが視界に入った。響が気に入ってとくべつな日に着ていたアルゴンキンのカーディガンに似ているなと思い、次の瞬間、響だと気づいた。小柄で、華奢な手足、腰にとどきそうなまっすぐな黒髪。
父親のレコードが家にあったからとかそんな理由で、響は中学生のころからUKロック、それも退廃的な4ADレーベルのバンドをよく聴いており、影響されて智佳もそういう音楽を好きになった。響と智佳の好みは細かいところ――あるバンドのどのアルバムがいちばん好きかとか、そのアルバムのなかでお気に入りの曲はどれかとか――では一致しなかったが、大枠では合っていて、来日公演があれば一緒に行った。八月に幕張メッセで開催されるサマーソニックにも、毎年二人で出かけた。
二人の関係に決定的な亀裂が入って絶縁状態になってからも、智佳は好きなミュージシャンのライヴに足を運ぶことをやめなかった。二回に一回は響の姿を見かけた。響は聴くが智佳は聴かないバンドはあっても、逆はなかったから、智佳が行くライヴに響も来ているのは当然だったし、スタンディングで好むポジションやドリンクを取りに行くタイミングなどの行動パターンも似ているので、鉢合わせても不思議ではない。とはいえ多くても収容人数が千人くらいのライヴハウスならともかく、何万人も集まるサマーソニックでも響を見つけてしまったときには、さすがに目を疑った。智佳もひとりだったが、響もいつもひとりだった。
「……それで、どうしたんですか」
「びっくりしたよ」
「びっくりするとは思うんですけど、具体的に……声とか、かけたんですか」
「まさか。気づかれないうちに移動した。……見かけるとね、もちろん動揺するんだけど、ちょっとホッとしてしまうんだよね。ああ元気にしてたんだって。もう交流はできないけど、同じ空間で同じ音楽を聴いているっていうことに救われる気がして」
「そもそも、どうして破局しちゃったんですか」
破局とはまた、恋仲に使うような表現をする、と智佳は引っかかったが、響と智佳とのあいだに起きたことをあらわす言葉としては、たしかにそれが相応しかった。
「ぎくしゃくしだしたのは、高校を卒業するころからだったかな。同じ大学を目指そうって約束していたんだけど、三年になってからわたしのやりたいことが微妙に変わってきたり、父の勤務先の業績が悪化して急に家計が傾いたりして、志望校を公立に変えたんだよね。それをどうしても言えなくて……ぜんぶの結果が出るまで、別々の大学に進学することを言えなかった。そういうことがその後も何度かあって、最終的には東日本大震災のあと、わたしが婚活始めたのがばれて喧嘩になって、修復できなかった。ひどいよね」
婚活のときも、智佳は響にだけ何も打ち明けられず、響と共通の友人を含めてグループで飲んでいたときに「智佳、婚活してるんだって?」と話を振られて発覚した。震災のあとで精神的に弱っていて、衝動的に始めてはみたものの結局だれとも交際にこぎつけられなかった。やめると決めたときには、響との関係も駄目になっていた。
ただ、智佳のなかでは直接の引き金になった九年前の婚活より、十七年前の豊洲の一日のほうがその後の展開を変えたという気がしていた。
「謝れるものなら謝りたい、やり直したい、って今でも思うよ。でも、わたしがそれをするのはエゴでしかないから」
「……智佳さんって、」
郁は何かを言いかけたとき、二人はチームラボプラネッツの建物の前庭にある、空から光の束が降り注いでいるようなインスタレーションに揃って目を奪われた。
「何だろう、あれ、すごい」
「近くで見てみようよ」
その話はそこで途切れた。
三年前の豊洲PITで見たアルゴンキンのカーディガンを智佳が再び目の端にとらえたのは、館内のロッカーに荷物を預け、靴を脱いでデニムの裾を膝まで捲りあげていたときだった。
まさか、という思いは、耳に飛び込んできた声によって確信に変わった。連れがいるのか、楽しげにあがる笑い声を聞き違えることはない。響の声だ。
入口には入場待機列をつくるためのスペースが確保されていたので、行列ができるほど賑わう人気のスポットなのだろうが、この日の館内には人はまばらだった。智佳は声のする方を見ることもできず、息を詰めてのろのろと支度をした。
「お待たせしました」
床までいちめん鏡張りの部屋があるとのことで、スカートから無料貸し出しのショートパンツにはきかえた郁が戻ってきた。ここで声を出せば響も智佳の存在に気づくだろう。智佳は観念し、ロッカーに鍵をかけた。
「行こうか」
不自然にうつむき、スマートフォンを無意味にもてあそびながら響の真横を通りすぎたとき、響が体を硬直させたのが智佳にははっきりとわかった。低い声で連れに話しかける響の言葉が、きれぎれに聞こえてきた。
「……ちょっとさ……が、あって……してもいいかな? ごめんね……」
展示は素晴らしかった。視覚だけでなく聴覚や触覚、嗅覚も刺激され、郁は子どものようにはしゃいでいた。すごいね、きれいだね、楽しいね、と智佳もしきりに言い、それは本心からだったが、それ以上に、敷き詰められたやわらかなクッションに足をとられる部屋の暗がりで、空間いっぱいのバルーンとバルーンのあいだで、ふいに響とかち合ってしまうことが怖ろしかった。上下も左右もなく無限に色を変えつづける光の奔流のなかに立つと、ここはどこなのかもいまはいつなのかもあやふやになり、こんなところで響に出会ってしまったら、わたしは二度と現実世界に戻れなくなるのではないか、と智佳は本気で怯えた。光の鯉を追って水中を歩きまわり、専用のアプリで光の蝶を飛ばせることに躍起になっている郁のそばで歓声をあげながら、一刻もはやく響がいる時空間から脱け出したかった。
最後の部屋を出て戻ってきたエントランスに響は見あたらなかった。着替えてショートパンツを返却しなければならない郁に、先に出て待っている、と告げ、荷物をとって建物を出たところで智佳は大きく息を吐いた。
「智佳さん」
郁は少し訝しそうな顔をしていた。精一杯取り繕ったつもりだったが、やはり智佳の振る舞いは不審だったのだろう。足ばやに歩きだしながら、智佳は笑おうと努力した。
「面白かったね。付き合ってくれてありがとう」
「最高に楽しかったです。智佳さんが連れてきてくれてよかった」
自然に智佳に歩調を合わせた郁が、さりげなく確認した。
「このまま豊洲駅まで行って、ららぽーとでお茶しますか?」
郁の意向も聞かず、逃げるように豊洲方面へ向かっていたことをようやく自覚した智佳は、あわてて同意した。いま体験してきたことの興奮や、このあとどうするかということを話す郁に相槌を打ちながら、智佳はときおり肩越しに振り返った。
ららぽーと豊洲のスターバックスコーヒーで飲み物を買い、そのまま店の外へ出た。今にも雨が降りそうな低い曇天は、なんとか持ちこたえてくれていた。
水上バスの発着場がある。「TOKYO CRUISE」という看板が掲げられていて、お台場や、浅草へも船が出ているようだった。
智佳は吸い寄せられるように水のほとりへ近づいた。目の前に広がっているのは海だろうか、川だろうか、それとも運河だろうか。どれであっても、高層ビルを背景に従えて静かに凪いでいる水面がうつくしいことに変わりはないのに、なぜいちいち、名前やカテゴリにこだわってしまうのだろう。
跳ね橋やクレーンを間近で観察していた郁が、智佳のそばに戻ってきて、ここ、造船所の跡地なんですって、と教えてくれる。
ゆるい傾斜がついた芝生に、寝そべってくつろげるかたちにカーブがついた石のようなベンチが点々と設置されている。智佳と郁はそのひとつに腰を下ろした。二人のほかには、若い男の子たちが一組いるだけだった。二人でゆったり座ってちょうどいい幅のベンチに、彼らは三人でぎゅっとかたまって寝ころんでいた。
「智佳さん、何買ったんですか」
「ウィンターホワイトチョコレート。郁ちゃんは?」
「ジンジャーブレッドラテです。ね、ひと口交換しません?」
反射的にためらったものの、智佳は頷いて飲みかけのカップを差しだし、郁のカップを受けとった。郁が飲み口に口をつけるのを見届けて、智佳もそっとひと口飲んだ。
「おいしい。けっこう甘いんだね」
「智佳さん、回し飲み気にするほうですか」
「しないけど、今はさ、万が一わたしが無症状で感染してて、郁ちゃんにうつしちゃったら悔やんでも悔やみきれないよ」
「間接キスだなんていって騒ぐのは小学生くらいだと思っていたけど、こうなってくると特別感ありますよね。食事するのも、マスクを外しておしゃべりするのも、こうやってソーシャルディスタンスなしで座ってるのも、ぜんぶ濃厚接触ですもんね。ただの同僚とはできなくないですか」
「たしかに」
郁はボタニカル柄の布マスクを外して膝に置いている。郁とは、知り合ってからマスクをしている状態で会っている時間のほうが長いので、鼻と口が隠れていない郁は最初のうち新鮮だった。それも今日いちにちですっかり慣れた。
響がマスクをしている姿は、そういえば見たことがなかった。チームラボプラネッツに入館するためにはマスク着用が必須だったから、今日はきっとしていたのだろうけれど。確実にぬるくなってゆくチョコレートを飲みながら、智佳の思考はまた、響のこと、十七年前のことに引きずられた。
「一緒にごはんを食べて、お茶を飲んで、えんえんおしゃべりすることって、こんな事態になる前からわたしのなかでは特別なことだったんです。特別な相手とじゃなきゃ、できない。でもなんか、そんなことよりキスから先のほうが特別で、そういう関係の相手こそが特別なパートナーなんだ、って思わせられる、そういう空気がずっとあった気がするんですよね。わたしはそれが不満で、だから、ようやく世の中の濃厚接触の定義がわたしに追いついたなって」
十七年前のあの日も、十一月の短い日が暮れるまで、響と智佳はぶらぶらしていた。門限にぎりぎり間に合わずに帰って、うんざりするほど叱られた記憶がある。豊洲市場も、豊洲PITも、チームラボプラネッツも、ららぽーと豊洲も、何もなかった運河の街でどう過ごしていたのか、もう、思い出せない。別れがたくて、一時間も二時間も改札口に立ったまま話し込むようなことが響と智佳にはよくあったから、二人で何をするでもなくさまよっているだけで時間が経ったのかもしれない。
帰りたくない、と響は言った。地下鉄の改札口の前で。帰りたくなさそうな気配を纏っていることはあっても、はっきり言葉にされたのは初めてで、智佳は狼狽えた。
「泊まっちゃおうよ」
「お金ないよ」
「多めに持ってきてるから、貸すよ」
「いやいや、いま手持ちがないっていうだけの意味じゃなくて、……きょうちゃん、どうしたの、急に」
「あたしさ、ちかととくべつな関係だっていうこと、はっきりさせておきたいんだよね。ただのすごく仲のいい友だちじゃ、ないんだっていうこと。だからただの友だちどうしじゃしないようなことをしたい」
響は台本に書かれた台詞を読むように一語一語をはっきりと発音した。おそらく、ずいぶん前から響のなかに用意されていた言葉だったのだろう。
「それでホテルって、きょうちゃん、だれともセックスしたくないんじゃなかった」
「したくないよ、だからちかなんじゃん。ちかとだったら、ホテルに行ってもそういう展開にならないでしょ」
ならない、と智佳も思った。断言できる。したいとかしたくないとかではなく、想像がつかなかった。それは相手が響だからということではなかったけれど、少なくとも、響と性的な関係をもつことは智佳にとってもありえなかった。
けれどもし、響と性的な関係のある「恋人」になれたなら、「別れる」ことも可能になるのか、という考えが、そのとき智佳の脳裡をかすめた。
「……喋るだけなら、今夜ホテルに行かなくてもいいじゃん。明日、学校でもできるし、わざわざ何かをしなくても、わたしはきょうちゃんを特別だと思ってる」
智佳が言い募ると、学校か、と響はため息をついた。
「まあね、二日も学校サボるのは、さすがにね」
「わたしら、一応受験生だしさ」
「そうだった。ちかは受かったのにあたしだけ落ちたら、洒落にならないわ」
いま、言わなければと智佳は思った。響と同じ大学へ進学することが、さまざまな要因でどうしても難しくなってしまったこと。公立大を第一志望にして、すでに対策も切り替えていること。受験料も安くないので、響と約束した大学はもう、受けるつもりすらないこと。
それでも響のことは好きだし、この先も一緒にいたいと思っていること。
何ひとつ口にできないまま智佳は曖昧に笑い、電光掲示板に目をやって、電車が来るよ、行こう、と言ったのだった。
あのとき響は智佳の前に線を引いて見せ、一緒にそれを越えようと誘っていた。智佳にはそれができなかった。
「……寒い」
郁が首を縮めて自分の両肩を抱いている。智佳は我に返った。カップはとっくに空になっていた。
「暗くなってきたもんね。中、入ろうか」
「入りましょう。智佳さん、まだ時間大丈夫ですか? よかったら夕ごはんも食べませんか」
「わたし、最初からそういうつもりだった」
グリル料理のレストランに入り、智佳は煮込みハンバーグ、郁はサーモンのグリルをそれぞれ注文した。智佳は居酒屋で皆で大皿をつつくのがあまり得意ではなく、おのおの皿を抱えて食べることが推奨される風潮は、正直なところ気が楽だった。
「智佳さん。これ」
皿があらかた空になり、食後のコーヒーを頼んだところで、郁がきれいに包装された小さな包みを取りだした。
「お誕生日おめでとうございます」
「えっ」
「昨日だったんですよね?」
「どうして知ってるの……わたし、話したっけ」
「聞いてないですけど、総務にいるんで」
「あっ……何それ、職権濫用だよ。わたしの個人情報……」
ぶつぶつ言いながらも、郁にことわって智佳はていねいに包装紙をひらいた。モロッコ風の模様があしらわれた、手のひらに載るほどの缶があらわれた。
「スチームクリームだ! うれしい、気になってたんだ、これ。ありがとう」
「よかった。今年はハンドクリームをものすごく消費するから、あっても邪魔にはならないかなと思いまして。使ってください」
「使う使う、ほんとうにありがとう。……郁ちゃんは? 誕生日、いつなの」
郁はわずかに言いよどみ、首をすくめた。
「実は、明日なんです」
「えっ?」
「だから今日は智佳さんとわたしの真ん中バースデーだな、なんて勝手に思ってて」
「言ってよ! もう、わたしばっかりもらっちゃって……今からでもケーキ食べる? ご馳走させて……って、ケーキないじゃん!」
手に取ったデザートメニューを力なく置いた智佳に、もうおなかいっぱいなんで、と郁は笑いながら言った。
「せめてここはわたしが出すね……一日エスコートしてもらったあげく、プレゼントまで……」
「わたしがしたくてしたことなんで。今日は一日付き合っていただいて、ありがとうございました」
「こっちの台詞だよ、とっても楽しかった。こんな状況だし、またすぐに、とはいかないかもしれないけど、でも、また遊ぼうね」
「ぜひ。……そう言ってもらえて、よかった」
郁は心からほっとしたようすで笑った。
「わたしのペースで引っ張りまわしすぎたかなって、ちょっと反省していて。後半、智佳さんお疲れっぽく見えたので」
智佳はぎくりとした。やはり、うわの空だったことを見抜かれていた。そんな、ぜんぜん、めちゃくちゃ楽しかった、と智佳は大げさなくらいに言った。
「楽しかったんだけど、ぼうっとしてたのは、……信じてもらえるかわからないけど、その……さっき話した十七年前に一緒に豊洲に来た子を、今日、見かけたからなんだ。チームラボプラネッツで。向こうもわたしに気づいてたと思う」
「嘘……」
「嘘みたいだよね。わたしも嘘じゃないか、こんなひどい偶然があるのか、って思ったよ。なんでもないただの平日に、時間指定で入場して、それで鉢合わせるなんて……しかも、わたしたちは直前に行くことを決めたのにね」
「そうだったんですね……すみません、わたし、のんきに遊んじゃって」
「いや、むしろわたしがごめん、郁ちゃんはなんにも」
「だって……しんどいじゃないですか、その状況。せめてわたしがいなかったら、智佳さん、気づいた段階で出るとか、どうにかしてやりすごせたんじゃないですか? 向こうも気づいていたのなら、会話になった可能性だって……」
そう言われて智佳は愕然とした。あのとき、そうすることでそこにいる響が傷つくとわかっていて、それでも智佳が何事もなかったかのように振る舞いつづけたのは、郁を、いや、郁と一緒にいる自分を守るためだった。冷水を浴びせられた心地がした。
「……いいの、もう、郁ちゃんといて、楽しかったから」
自分に言い聞かせるように、智佳はゆっくり言った。
「この歳になって、こんなふうに話したり遊んだりできる友だちができるなんて、思ってもみなかった。そういうひとはずっといなかったから」
響がいなくなってしまってからは、というのは言わずに飲みこんだ。
「……来年も真ん中バースデー、しましょうよ。アフタヌーンティーとか、どうですか。知ってます? いま、東京ステーションホテルに、東京駅の駅舎の屋根裏でアフタヌーンティーができるプランがあるらしいですよ。三菱一号館美術館のカフェのアフタヌーンティーもいいし、東京駅周辺じゃなくてもいいし、アフタヌーンティーじゃなくてもいいんですけど」
「なんでもいいんじゃん」
「なんでもいいんですよ。智佳さんが遊んでくれたら」
智佳はまじまじと郁を見た。視線が合い、沈黙が落ちた。映画だったら、キスするタイミングだな、と他人事のように思う。キスはしなくていいけど、帰りたくないな、とも。
「そろそろ、出ましょうか」
郁の言葉に、智佳は素直に従った。終電までにはまだまだ時間があり、帰りも郁と一緒にゆりかもめに乗って、新橋まで行ってしまおうか、と智佳はひそかに逡巡した。けれど結局、地下鉄の入り口で手を振って別れ、振り返らずに階段を降りた。
ここでおとなしく帰らずに、たとえばホテルをとって泊まったりしたら、郁と、何かの一線を越えていたのかな、と電車に揺られながらぼんやり思う。でも、もうすでに何本もの線を越えたのだという気もした。ランチをともにすること、休日も会うこと、お茶、食事、マスクを外して何時間も過ごすこと。見えない線は無数に引かれていて、ひとつを越えても、きっとまた新しい線があらわれるのだ。
帰宅してシャワーを浴び、ベッドに入ろうとしたところで、郁からのLINEに気づいた。
「ちかさん、今日はありがとうございました。あのあとずっと考えていたんですけど、ちかさんは、目の前にいない遠いひとに恋をしてしまうんじゃないでしょうか。海の向こうとか、映画の中とか、過去とか、遠い場所にいるひと。
ちかさん、わたし、今日ちかさんの恋を終わらせてしまいましたよね。それなのに新しい恋の相手にもなれなくて、ごめんなさい。
わたしは、これからもちかさんの目の前にいたいから」
智佳は微笑した。とっくに終わっていたのだ。智佳が頑なに気づかないふりをしていただけで。
時計を確かめると、十一時五十八分だった。二分後に送信できるように、智佳はゆっくりメッセージを入力した。
「こちらこそ、ありがとうございました。また、会社でね。お誕生日おめでとう」