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お正月のたびに「伝統」「文化」「絆」の言葉が大切に思われる。某学園ドラマの名言に「人という感じは人が支えあってできているのだ」がありますが、人間は人との関係が人生を豊かにすると私は思っています。生涯を終えるときに自分はどんな風に息をひきとるのだろう?職業柄、若い頃よりたくさんの人生の終末にかかわってきました。幸せな終末を迎えられた方、さみしいなと感じる終末を迎えられた方・・・だからこそ私にかかわる方が人生の終末を迎えるときにはその人が「悔いのない」終末を迎えられるように私は尽力するようになりました。

1.「キリギリス」の子孫の宿命

刹那を享受するのが美徳の様な世相だった1980年代、まさに「アリとキリギリス」のお話なら「キリギリス」だった時代、そのころの若者が育てた子供さらに孫と「時代」が変わるにつれて人の心は弱くなっているようにも感じる。なんでも白黒つけたがり、すべてを数字で評価する。自分たちで自分の首を絞める世相になった。文明が栄えて心が貧しくなったとも表現されるが、根底には社会の最小単位の家族のコミュニケーション不足が取り上げられていた。両親共働き、鍵っ子、個食・・・「団らん」という言葉が死後になったのではないかと思われた。コロナでさらに人は隔離されて、その「人」が見えないから数字で結果を判断される。良くも悪くもこの新しい世相にいち早くなれることが大切なんだろう。「良い」ところに早く目をつけて生きてほしいと思います。

2.便利性を追求したために

家電製品は常にシンプルな機能だけのものを私は選ぶ。「便利機能」は機械音痴の私には正直いらない。なので「便利機能」満載のパソコンは私にとって超苦手です。家電にとっては便利性の追求は商品開発の上で大切なことでしょう。共働き世代であれば短縮された家事の時間をほかの時間に充てることができる。CMでは家族だんらんが良く表現されているが、そうあってほしいと願います。各年代で必要な「便利」は違ってくるので最近は「乾燥機」が洗濯機とセットで活躍している。年老いた母には外に洗濯物を干すことがつらくなってきたのだ。私の住んでいるところは小田舎なので外干しは当たり前。母の運動と母の主婦としての存在意義のためにできるだけ母やると言ってくれることはやってもらうことにしています。子供と同じで「過保護」はいけません。しかしできないものを無理にさせてはいけない。できないことを一緒にやるか、代わりの方法を考え、提案するのです。

大人には便利はとても有意義ですが子供には今一つの様に感じる。自分たちが子供の時、手間のかかる作業をしてきたからかもしれないが、今や2歳でスマホを動かす。アニメの途中のCMもここを押せばすぐに続きが見れることを母親の指の動きで覚えているのだ!幼児の素晴らしい脳がこんなところに発揮されるのはなんだかなぁと苦笑する。便利を使いこなす前になぜそれが便利なのか?「不便」を知らないと今の子供たちは何をしたらいいのかわからない子が多い。恥ずかしながらわが子をみて思う。「学習の基礎」を小学校で習うように、日常生活の基礎もしっかりと教えないといけないのではないかとおもう。それは学校ではなくやはり「家庭」なんだろうな。

3.つなぐということ

我が家の年末は忙しい、「餅つき」をして「おせち」を作り「押し寿司」も作る。田舎には支えあう文化がしっかりと残っている。不便だから支えあわなければ生きていけないのだ。そこにはコミュニケーションがある。決していいことばかりではない、よくも悪くもあるからこそコミュニケーション能力が自然とついてくるのだ。個々の対応の仕方、接し方、距離感、それぞれが快適な距離を自然に見つけ出す、また教えてもらえる。しかし笑顔で親族がそろいひと時を過ごすことは楽しい。もちろん全員が通る道だが思春期にはつらい団体行動だ。しかし、この団体行動がのちのち社会で生きていく武器となる。「押し寿司」は郷土料理で本来秋祭りでふるまわれる料理だが田舎を離れて暮らす叔父には懐かしい「家庭の味」だ。家族が集まる正月に用意した。まだまだ下手な押し寿司だったが叔父は喜んでくれて毎年評価してもらっていたのだが昨年旅立った。しかし文化として、娘にも受け継いでほしいので私は毎年お正月に押し寿司を作るもちろんおせちも。「門前小僧」でいい、私の姿から彼女なりのアレンジを利かせて彼女の次の世代へつないでほしい。教育も同じこと。私が教えるローリング療法も同じ思いで生徒さんにローリング療法の技術と知識をつないでいく



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ローリング あさこ/ローリング療法師 蜷川 麻子
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