チェリまほドラマ12話感想。気持ちが冷め切ったはずだった私が続きを待つ理由。
私が12話を見ながら最後にしたツイートは「あと1秒」だった。
でもそのツイートは素直な気持ちじゃなかった。
ただ「私はこのエンディングに納得していない」という気持ちをどうにか発信したかった。
でもドラマを見ている今、他の人たちの気持ちはわからない。
ハッピーエンドを祝福している人達の気持ちに水を差してはいけない。
だからこれ以外の言葉は選べなかった。
でもこの時、前日から眠れないほど楽しみにしていた私の気持ちは冷え切っていた。
12話について「キスシーンがなかったことに怒った人たちが批判している」
と一部で結論づけられている気がするが、本当にそうだろうか?
別にキスシーンがあろうとなかろうと、最後の1秒に至るまでの経緯が丁寧に描かれていたら違ったのではないか。
そんなに細かいことを気にする方がおかしいと言う人もいると思う。
でも「そんなに細かいこと」が丁寧に描かれてきたのがこのドラマだと思っていた。
チェリまほ最終回がなぜあの終わり方だったのか。
1徹底的に映像美にこだわった
。
2最初からEndが決まっていた。
3コロナ禍という特殊な状況の中で12話を完結させなければならないという責任感と使命感。
主にこの3点だと思っている。
そしてその為に
、キャラクターの崩壊とお節介なまでに明確な伏線の回収がされたのだと思う。
○徹底的にこだわった映像美
12話の内容には殆ど納得してないが、映像の美しさには感動した。
特にエンディングのエレベーターでのキス。
二人の身長と体格の違いとか、手の位置と顔の角度とか全てが計算され尽くしたあの映像。
コマ送りでスクショ撮って飾っておきたいくらい美しい。
まるで原作の先生が描いた作品のようである。
それに二人の表情。特に安達の表情がこれまで及び腰だった安達とは別人の顔。
そして触れる直前で扉が閉まる。
真っ白なエレベーターの扉に映る空とスカイツリーの影。
どこを取っても美しく、完璧。
映像的には。
そう、ストーリー的にはどうであれ、映像的にここで止まるのが絶対的に美しいと思う。いわゆる未完の美。
それを感じたシーンがもう一つ
。
六角と藤崎さんの花火。
あのシーンもただただ二人ともかわいいし、花火の火の粉と煙に霞んだシルエットが美しい。
12話だけではない。1話から12話までチェリまほの映像の美しさへのこだわりは一貫していてブレがなかった。
チェリまほチームの映像美へのこだわりは視聴者が思っているよりも半端じゃなく強いものだと感じている。
映像が優先か、ストーリーが優先か。12話は圧倒的に映像優先だったと思う。
それくらい美しい映像が詰め込まれていた最終話だった。
しかし映像美を優先させたことで、私を含む一部の視聴者との間に大きな溝ができてしまったのではないだろうか。
○最初からEndは決まっていた。
このドラマの1話から11話までは「視聴者が想像できるような余白を残してくれていた」と思う。
でも、12話にはその余白はなかった。
それは「コロナ禍において無事に撮影を終え、物語を完結させなければならない」というスタッフ全員一致の使命感のようなものだったと思う。
撮影時にこれがどれ程大変な使命だと感じただろうか。
とにかく完結させるという思い。そこに向かっていたと思う。
だから明白にわかりやすく伏線の回収がされた。
でもそれはあまりにも忙しく、お節介に感じた。
1話冒頭の台詞
「30歳になるまで考えてもみなかった。平凡な俺の人生に、いや、俺自身に、こんな魔法がかかるなんて」
この台詞の対になっている部分を12話から全て書き出しなさい。
そんな問題の回答を何度も繰り返し聞かされている気分だった。
A「いいの?力がなくなっちゃっても」「いい、黒沢がいれば魔法なんていらない」
B「こうして俺は魔法使いじゃなくなって、どこにでもいる30歳の男になった」
C「すごいねー!もう魔法使えないのに」
どれか一つでよかった。
どの台詞もそれだけで十分内容が伝わる。
特にBのモノローグは必要なかったと思う。
この1話から12話までの物語をモノローグという形で、一言でまとめて終わらせてほしくはなかった。
でも、制作側としてはここは明確にしなくてはならなかった。
そこに製作側と一部の視聴者との間にすれ違いが生じた。
特に続編を期待していたファンにとって「完結しました」を繰り返されることはしんどい以外のなにものでもなかった。
最近のドラマは前半に大掛かりな伏線が用意されていることが多いように思う。
それは本当に必要なのだろうか。
伏線の回収はほとんどが物語の後半にくる。
最後の最後になる場合もある。
私は大掛かりな伏線が準備されたドラマは苦手である。
もし、どこかで見誤ったり、作り手側と解釈が違う場合、最後の最後で盛大な置いてけぼりをくらうからである。
しかも、大掛かりな伏線が用意されたドラマは複数の伏線が張ってある場合が多く、後半はその回収に追われる。
そこまでして伏線を張りめぐらす理由は何だろうか。
12話を見た後に改めて1話を見てみると、はじまりの目覚ましのアラーム音、安達が寝ている時に着ているパーカー、通勤途中に購入するダブルマヨ、そして自転車と白いパーカー等…ちょっとビックリするくらい同じである。
景色はほとんど同じだけれど、1話とは違うのは安達の中身である。
それを表現するために同じ景色を準備した。
その事は理解できるが、様々に張り巡らされた伏線は他のエピソードを省略しても張らなければならないほどの伏線だったのだろうか。
これはチェリまほ以外のドラマにも思うこと。
よくツイッターなどで「あっ!これあの伏線の回収だ!」というのを見かけるが、正直「だから何なの?」と思わないでもない。
ミステリーやサスペンスならともかくとして、多すぎる伏線は話題性だけのために用意されているようにも感じる。
○アントンビルの前に起きたキャラクター崩壊
「まいったな」
この時の黒沢を私は今でも殴りたい。(暴力的な表現ですみません)
二人の関係が会社の人にバレていたのである。
例え相手が誰であろうと、藤崎さんであろうと関係ない。
一大事である。
あの瞬間、いつもの黒沢ならまず安達のことを考えて、動揺してその場で凍りついただろう。
その場は取り繕ったとしても、その先の話なんてできないだろう。
いくら浮かれていようとも、それとこれとは別問題。
この時点では藤崎さんだけでなく、社内のどの範囲までバレているかわからない。
自分の行いのせいかもしれない?
それとも他の何か?誰か?
大パニック状態である。
8話でも「アウティング」について一部の視聴者から問題視されていたが、その時はそれ程気にならなかった。(気にならなかった私も問題であるが、ここでは一旦保留)
相手が柘植であったこと。安達と柘植との信頼関係は1話から描かれていたこと。
安達と同様に柘植が魔法使いであること。
交際宣言された黒沢が嬉しそうに見えたこと。
そう、ここには黒沢がいた。
でも藤崎さんと話しているこの場に安達はいない。
しかも会社である。
私の読解力不足かもしれないが、藤崎さんと黒沢の間にそこまでの信頼関係があった事はここまでのストーリーでは読み取れなかった。
そして、例え信頼関係があったとしてもそれとこれとは別問題であると思う。
この後の話と矛盾するかもしれないが、今の日本は同性愛者に対する視線は甘くない。
社会的マイノリティ全般に甘くはない。
それは7年間も片思いしていた黒沢が一番よくわかっていたのではないのか。
それが全くパニックにもならず、それどころか「はじめてのデート」などと話を続ける。
さらに「アントンビルの屋上」の話までしている。
そして考えてみると、この時点では安達と黒沢の関係はまだ良好だったはず。
なのにこの大事件を安達に報告すらしていない。
この時点で私はこの黒沢にはさよならした。全く理解ができなかった。
○藤崎さんに頼りっぱなしの最終回
次に藤崎さん。
この物語の中で、私が整合性がないと感じたのは藤崎さんのキャラクター(人格)である。
ただ、藤崎さんを演じた役者さんが最初から最後まで「安達と黒沢を見守る存在」として一貫したお芝居をされていたので同一人物として認識できていた。
他の方が演じたらもうバラバラの人物になっていたのでは…とさえ思う。
4話での藤崎さんは周囲からの自分に向けられるイメージや期待、
置かれている現状と自分との間に「不一致」を感じているように思えた。
そしてその繊細な部分をお節介な人達に触れられることを良く思っていないように見えた。
だから11話までは特に動くことはなく安達と黒沢を温かく見守っていた。
それが12話で突然動き始める。
ちょっと動くなら理解も追いつくが、
もう、安達も黒沢も六角までも藤崎さんを中心に動いていると言っても過言ではないというほどの動き方である。
人間、時には説明がつかないような突拍子もないことをする。
藤崎さんも突然花火を打ち上げたくなったのかもしれない。
二人のためなら。
周辺の許可も取らずに?(ここはドラマだから省くとしても)
やはりどう考えても理解できない。
「ごめん、こんなお節介」
「ごめん、またお節介」
少なくともこの2つの台詞はそれまで彼女がお節介ではなかったこと。そしてこの後お節介な人に変わることを暗示しているように思えた。
彼女のキャラクターを変えてしまったために付け加えられた言い訳のように感じた。
12話が藤崎さんが先導する形で話を進めることが事前に決まっていたのなら、ここに至るまでの安達と黒沢と藤崎さんの三人の関係をもっと丁寧に描いてほしかった。ここは時間が足りなかったからという理由で省いてよい伏線ではなかったと思う。
○アントンビル
もう正直11話からトラウマになりそうな「アントンビル」という名称。
そのアントンビルに向かう途中、安達は藤崎さんに電話をかける。
この電話(LINE)、なぜ黒沢にかけなかったのか。
安達はアントンビルの屋上にたどり着くまでなぜか黒沢には電話しない。
到着してからかけようとする。
まだ気まずいから電話できない?
そうだろうか。だったら到着してからも電話をかけることを躊躇うはず。
安達がアントンビルに向かっていることはこの時点で黒沢には知られてはいけない。
逆に安達がアントンビルに向かっていることを知らなければならない人がいる。
藤崎さんである。
だから藤崎さんに電話した。
その前に、六角がクリスマス花火大会の中止と自分の予定が空いてることまで報告している。
もうこの後の展開への準備は万端である。
そして映像美へのこだわりがあるので、2人がアントンビルに着くのは必然的に夜になる。花火も電話会社のあのビルも昼には輝かない。
ここまでの流れから、安達がアントンビルに到着した時点で既に私の心は冷え切っていた。だから正直アントンビルのことはほとんど記憶にないし、まだ見返すこともできていない。
ただ、この場面で「よかったな」と感じたのは、アントンビルにたどり着いた安達と黒沢が綺麗な2人ではなく、傷ついて苦しんだ過程が窺えたこと。
この二人の表情はここまで安達と黒沢を演じてきたお二人だから表現できたのだと思う。
ここでキラキラした黒沢さんが現れたらテレビを消していたかもしれない。
そして安達の第一声が相変わらず「ダメだった」というネガティブな言葉だったのがよかった。
○安達のファーストキスがなかった理由
「BL苦手だからキスシーンがなくてよかった」「BLはじめてだったからこれくらいがちょうどよかった」「白T着てくれていていてよかった」
本音だと思うし、これらの意見を否定するつもりはない。
あの最終話を見た率直な感想なのだから。
しかもこの感想がとても多かった。
でも私はこれらの言葉を見た瞬間胸を抉られた。
涙が出た。
涙が溢れて止まらなかった。
書いてる今も泣いている。
理由はわからないけれど何かに負けた気がした。
ストーリーに勝ったも負けたもない。でも負けた気がした。
世の中の人全員に配慮しようとした結果、一部の人をどん底まで落としてしまうことがある。
「私はその一部の人だったんだ」
と最初は考えた。
そしてどん底まで落ち込んだ。
でもたぶん違う。
先に述べたように、私はこの物語のEndは最初から決まっていたと考えている。
それ以外の何でもない。
誰に配慮した訳でもなくあのエレベーターキスで終わる予定だった。
そして予定通りに終わった。
ただそれだけのことだったと思う。
ラストのキスシーンは最後まで見せないことが決まっている。
だからその前にアントンビルでキスをさせる訳には行かなかった。
ラストシーンは1番重要で、その前にキスシーンを持ってきたら絶対にラストがぼやける。
だから12話の放送終了後に上記の「BLが苦手な人達」のこういった感想が出てきたのは制作側からしても予想外の展開だったのではないだろうか。
この人たちに配慮したのであればたぶん柘植と湊と圭太のキスシーンもなかったと思う。
ただ、重要なのはBLがドラマ化して最終回を終えた後にこの感想が多く出てきてしまったという事実。
例え意図しなかったとしても結果的にBLが苦手な人たちへ配慮したと言われても仕方のない結末になってしまった。
このドラマでは同性同士の恋愛の他にも様々な現代社会のテーマが描かれてきたように思う。
いつも仕事を押し付けられる人、空気の悪い職場の飲み会、恋愛や結婚に関する価値観の押し付け等々…
でも男性同士の恋愛をメインに描くならば他の諸問題はさておき、一番に配慮するのは世間ではなくセクシャルマイノリティの人たちだったと思う。
話が飛ぶが、ドラマが後半に差し掛かった頃、脚本家の方のインタビューも話題になった。
正直、私はまだそれを読んでいない。これ以上の文字を頭にいれたら感想が書けなくなると思ったから。
だからこの感想は現時点での感想である。
インタビューを読んだら変わるかもしれない。
こんなひどい文章をダラダラと書いている私の職業は編集者である。
でも、一つだけこの仕事をしている私だからわかることがある。
インタビューというのは必ず媒介者がいる。
「全文掲載」でもない限り、インタビュー内容がそのまま載ることはない。
「全文掲載」であっても、話し手の表情や言葉のイントネーションやリズム、言葉に込められた意図をそのまま伝えることは難しい。
そして聞き手である媒介者の思いが必ずピックアップされる。
また更にそこに読み手の感情が加わる。
インタビューにはそういった性質がある。
でも読み手はそれが全てだと思ってしまう。
雑誌が発行された後に「誤解だ」「そういうことを言ったつもりじゃなかった」なんてことはよくある話だ。しかし既に世に出てしまったものは手遅れである。
アイドルや歌手のファンの方が書く「コンサートレポート」を思い出してほしい。
それは私がテープ起こししたインタビューよりずっと正確だ。
ちょっとした発言も聞き逃さないし、一挙手一投足を見逃さない。
でも、同じコンサートのレポートを見ても書き手が違うと「さっき見たレポと全然違う」と感じることがある。その感覚である。
書いてあることは同じはずなのに全然違う。
媒介者がファンであるとよりその傾向は強くなる。
だからインタビューに書いてあることがそのまま話し手の意図するところではないと思っている。
そして「最終回で何が一番大切にされたか」というところまで遡れば、ドラマ全体の流れを決めるのは脚本家だけではない。監督の意向が大きいのではないかと思う。
改めて1話から12話を振り返ってみると、このドラマが社会的マイノリティである人々を置き去りにするような作品だったとは思えない。
1話からずっと人が人を想う気持ちを丁寧に描いていた。
ただ、12話にたどり着くまでに作り手と受け手がお互い歩調を合わせてきたものの、少しずつ生じてきたズレが、12話で大きくすれ違ってしまったのではないかと思う。
すれ違わない人がほとんどだったかもしれない。
でも一部の視聴者とは大きく離れてしまった。
その要因は予想以上の反響の大きさであったり、撮影から放送までのタイムラグ。
全話合わせて4時間50分という尺の問題など様々ある。
だが、一番の要因はストーリーより映像の美しさや伏線回収を優先した結果、必要な部分が省かれてしまったことにあると思う。
そして映像の美しさだけではなく、このドラマでは最終的に「みんなが主役で優しく温かい世界」を描きたかったのかもしれない。
でもそこにリアルを見出せなかった人たちは迷子になってしまった。
それはやはり必要な説明が欠けてしまったからであると思う。
【蛇足】
ここからは蛇足。
ここまでもただの個人の感想だが、ここからはさらに根拠もない勝手な憶測。
思いっきり話が飛ぶし、文体も変わるかもしれません。
○キスシーンについて。
「コロナ禍だから」「BL苦手な人がいるから」の他に「事務所の都合、俳優さんの都合」という意見を見かけたのですが、それはないと思う。
驚くことにはこの噂は海外のファンにまで広まっている(海外のファンの割合の方が多いかもしれない)
だが、ご本人達の過去のインタビューを読んでみるとこの役に抵抗はないと思うし、むしろ演じてみたかった役柄だと思う。
事務所についてははっきりとは言い切れないけれど、これだけBL原作が流行っていて積極的に所属タレントを出演させてる事務所もある昨今「うちのタレントは同性同士のキスは…」なんて言う芸能事務所はないと思う。
そうであればタイトルとあらすじを聞いた時点で断っているだろう。
「コロナ禍だから」は8話の時点で消える。
キスシーンがなかったのは、やはり制作側にその予定がなかったからだと思う。
○8話でのアウティングについて
安達の交際宣言が一部で問題視されていることには気づいていた。
でもこの時点で私は「全然気にならなかった」し見ないフリをしていたかもしれない。
その理由は本文に既に書いたので書かないが、実際には気になった人がいたということ。それはBLを原作としている限り、見落としてはいけないのだと思う。
それ程、セクシャルマイノリティである人達にとってアウティングは繊細な問題だということなのだろう。
そしてこれまでのBL原作ドラマでは大切な、重要なシーンとして扱われてきたのだと思う。
その重要な問題を8話を見終わった時点での私は全くわかっていなかった。
ただ、個人的には8話のアウティングが理解できて11話のアウティングが理解できない最大の理由はその場に安達がいなかったことだと思う。
○藤崎さんについて
ドラマの放送中に原作の先生のツイートを見て、藤崎さんが原作に登場したプロセスを知った。それを知って驚き、心が揺さぶられた。
だから、その大切なキャラクター(人格)を変えてしまうなら、なぜ藤崎さんという名前にしたのだろうと思った。
様々なテーマを取り上げる中、一つのテーマとして恋をしない人を描きたかったのだろうか。
その為にキャラクターを変えてしまったのだろうか。
でも、それだけなら変える必要はなかったように感じる。
ちょうど同時期のテレビ東京の深夜ドラマに「ハルとアオのお弁当箱」という作品があった。
この脚本が秀逸であったと思う。
ハルちゃんは2次元に夢中で恋に興味がない女の子。
アオくんはジェンダーレスで美意識の高い男の子。
この2人が同居するお話。
お互いのことは大好きだけれど恋愛感情はない。
だから恋愛に発展することもない。
この感覚は周囲から理解を得られない。
このドラマの脚本の良さは、二人が最終話まで変わらなかったこと。
そして周囲もほどんど変わらなかったこと。
1話ごとにちょっとした二人の成長や、周囲の人々の心境の変化は描かれているものの、結局社会から向けられる目はほとんど変わらないままだった。
その変わらない二人の存在が
「世間の目は冷たいかもしれない。でもあなたという存在を理解してくれる人はきっといる。もしかしたら隣にいる人も同じように悩んでるかもしれないよ」というメッセージを伝えてくれた。
それがチェリまほの4話だったと思うし、4話から伝わってきた。
だから、藤崎さんにはずっと2人を見守り続ける変わらない存在であってほしかった。12話での変わり方にはついていけなかった。
○原作のイメージにハマりすぎたキャステング
このドラマのファンのほとんどが思っている事だと思うが、こんなにキャスティングが上手くいったドラマを他に見たことがない。
本当に原作のイメージにピッタリで、しかも全員演技力がある。
原作に描かれていた登場人物達の心の動きを見事に再現していた。
そして7話までの脚本はオリジナル性は持ちつつも原作に忠実だった。
この恐ろしい程の一致。再現度の高さが大きな反響を呼んだと思う。
しかし、原作は連載中で現在進行形。8話以降はほぼオリジナルでいかなければならなかった。
そしてタイミングよく、ドラマの放送中に原作がドラマのペースに追いついてしまった。
ドラマはドラマ。原作は原作。そうはわかっていても途中まで原作に忠実に描かれていたものを切り離せと言われても難しい。
たぶん、原作とキャストのイメージがここまで一致しなければ、分けて考えることもできたのだろうと思う。
逆にここまで一致してしまうと、原作のストーリーを最後までこのキャストで見たくなる気持ちは当然じゃないかと思う。
でもそれは単に「ファーストキスが見たい」などという簡単な言葉で片付けられるようなものではなく、この二人の役者さんならそこに至るまでの安達と黒沢の心境の変化や成長していく過程を丁寧にひたむきにそして豊かに演じてくれると思ったから。
ここまでずっと細かな心理描写と映像の美しさにこだわってきた制作陣が、どんな台詞で、どんな美しい映像で、どんなユーモアあふれる音楽で、それを表現してくれるのだろうと思ったから。
12話の内容に納得できない私は、それが見たかったのだと思う。
11話までのあまりにも楽しく満たされた時間が、どんどん期待を大きいものにした。
そしてそれが見たいから、続編について諦めることはできないし、これから先もずっと期待して待ち続けると思う。