どうして人はアドバイスしてしまうのか? 助言から提案へ
アドバイスをネットで調べたら、助言という訳語が出てきた。
助言ってことは偉そうなのだ。相手を下に見る行為なのだ。
例えば、あいつは何もわかってないなぁとか、どうしようもないやつだなぁとか。
ニートに対して、「こうしたらいいんじゃないかな」とアドバイスするのは上から目線なのだ。私はニートの価値観の遥か先を行っていて、あなたも成長すれば私に追いつけるかもよと言っているようなものだ
それは西洋人が「未開」のアフリカを見て、俺らの文化まで追いついてこいよと煽る。でもそれは間違いで、決して一方通行的な時間軸、つまり時間が経てば西洋に追いつけるとする考えと距離を置く考え方は増えてきているのだと思う(教科書で見た)
どうしてこの考え方を人に適用できないのだろう
人の進む方向は一方通行であるはずがないのに、自分が体験したことがある、挫折したことがあるポイントに差し掛かっているような人を見ると助けてあげたくなる
人が出会うのは交差点なのだ、交差点でたまたま一つの問題を抱えた人と出会った時に教えてあげたくなる、解決してあげたくなる。
まるでその人の歴史を全て分かったかのように
人はそれぞれ教科書があるのだと思う。
科目ごとに教科書があるように。
科目ごとの教科書は批判され訂正され一つの歴史として編み出される
だからこそ、正解があり、進むべき方向がある
それを人に適用してはいけない
自分の教科書を編み出していかなくてはならない
じゃあ交差点でできるのはなんであろうか。クラクションを鳴らすみたいに提言じゃなかろうか。
ただ表明すればいいのだ、自分はこう生きていると
ただ私が今書いている文章も助言に近いものになってしまった
偉そうなのだ
いやでもこれは自分に向けて書いているのだ
自分の教科書を今も私は私に向けて書き続けている
そして独りよがりにはなってはいけないと思うから、誰かだ通り過ぎるのを待って提言し続けているのだ