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バルコの航海日誌 Ⅲ◆香料図書館《6》

Ⅲ◆香料図書館

《6.翌日の図書館》


一夜が明け、出航の日となった。わずかの滞在だったが、港に船を係留してでもひと晩を過ごすとそれなりに街には愛着が湧く。

バルコは、船の自分のベッドで目を覚まし、着替えを終えると船室から出て、船から降りた。顔を洗いに出てきたらしいダッカがバルコを見とがめて、船べりから叫ぶ。

「こんな早くからどこに行くんだ、バルコ。朝飯も食わずに」

振り向いたバルコは大声でどなり返す。

「朝飯はダッカに譲るよ。ちょっと寄りたい場所があるんだ」
「朝っぱらからあやしい奴だな。まあいいや、朝飯は片づけておいてやる。早く戻れよ、昼には出航だぞ」
「うん、分かってる。ちょっと行って来るよ」
ダッカは大きなあくびで応えた。

まだ朝露の湿り気が残る港の石畳を踏みしめバルコは街に向かった。

港を出て、公園を抜けると街に出た。通りに立ち並ぶ店も開き始めたところだ。肥ったパン屋は焼きあがったパンを店頭に並べ、黒いエプロンをしたカフェの店員は張り出しテントの下に椅子を並べている。平日の街は昨日とはまた違った活気を帯びている。革の鞄を提げて足早に歩いていくのは勤め人だろうか。石造りの建物に吸い込まれていく。

大通りを抜けると、前方に煉瓦造りの建物が見えてきた。図書館だ。昨日とは異なり正面の扉が大きく左右に開かれている。バルコは石段を登り足を踏み入れた。

昨日は閉ざされていた鎧戸も、今朝はいっぱいに開かれ、窓からは青空が見える。窓からは眩しい陽が射し込み館内は明るい。ときおり爽やかな微風が吹き抜ける。開館時間を過ぎたばかりだが、、早くも館内は利用者で賑わっている。書き付けを片手に書架の前で本を探す人。長机で勉強をしている学生。

二階へと続く大階段の下に設けられた受付も、本を借りようとする人、問い合わせをする人々で混みあい、カウンターの前には短い列ができている。数人いる係員たちも対応も追われて慌ただしく立ち働いている。館内の、昨日とのあまりの雰囲気の違いにバルコはぼうっとして、どこかひとごとのようにその光景を眺めていた。窓から差し込んだ光が埃に反射して、斜めの光の柱を作る。柱は一枚板でできた受付のカウンターの上に突き立っている。

その光の柱に係員の眼鏡がきらりと光った。
「次の方、どうぞ」
その声にバルコは我に返った。
「次の方、よろしいですか」
バルコは慌ててカウンターの前に進み出た。

係員は銀縁の眼鏡を掛けた女性だ。黒い髪を後ろでひとつに結んでいる。眼鏡の奥の表情は見えず、服装も地味なせいで年齢不詳の雰囲気を漂わせているが、顎の線はすっきりと鋭いので、きっとまだ若いのだろう。身に付けているのは、白いワイシャツに濃い灰色のスカート。男性職員は同じく白いシャツに灰色のズボン。おそらくここの制服なのだろう。

「司書の方をお願いします」
「私が司書ですが」
着ているものと同じく、個人的な感情の感じられない事務的な声が返ってきた。

バルコは昨日の『少年司書』のことを思い浮かべた。シナモンと、彼女とでは、年齢から身なりから何もかも違う。目の前の彼女が身に付けている制服には、金のブロードや飾り縫いといった舞台衣装めく華やかな装飾は一切なかった。やはりというか、目の前の彼女こそが『正式な』司書であり、まとっているものが本来の制服なのだろう。シナモンが誇らしげに示した「司書の証し」のバッジももちろん見当たらない。

女性司書の無機質で事務的な態度に、バルコは及び腰になったが、後ろに列を作っている人たちの無言の圧力に背中を押され、ようやく要件を口にした。

「あの、ここは香料図書館ではないのですか」
「香料図書館、ですか?ご覧の通り本館は一般的な図書館ですが、どういった意味でおっしゃっているのでしょうか」
司書の眼鏡がまた光り、バルコの意気を消沈させた。
「えっと、実は昨日ここの図書館に来たのですが、特別開館日ということで別の司書の人に案内をしてもらったんです。館内には壜に入った香料が何種類も見渡す限り棚に並んで、利用者はその壜の栓を抜くと」

バルコの必死の説明を司書が遮った。
「何をおっしゃっているのか分かりませんが、昨日は休館です。何か思い違いをされているのではありませんか」
このしごく真っ当な司書を相手に、昨日の幻想的な書架のことを、シナモンやバニラたちのことを尋ねようと試みても意味をなさないことをバルコは悟った。

「では、なにか、香料についてまとめた特別室のような部屋はありませんか」
「そういった部屋はありませんが、香料についての資料でしたら本館の蔵書にあります」
そういって彼女はカウンターの上に館内の案内図を出し、バルコに書架の場所を示した。
「後ろの大階段で二階にあがっていただくと、通路の突き当りに農産物に関する資料を集めた書架があります。その一番下の段に幾冊か、香料の資料はこちらだけです」

そこまで説明すると司書は言葉を切った。ややあって
「ご案内しましょう。場所が分かりにくいので」
バルコはひとりで書架を探すつもりだったが、不愛想に見えた司書の意外にも親切な申し出に戸惑っているうちに、彼女はもう先に立って歩き出していた。

司書のあとについてバルコは大階段を昇りながら、バルコは昨日、やはりシナモンの後をついてこの階段を昇りながら、手すりを滑り降りてみたいと考えたことを思い出していた。どうせなら昨日のうちに実行しておけばよかった。シナモンなら許してくれたかもしれないが、この司書が相手ではとても無理だ。そうだ、シナモンとふたりで滑ってみれば良かった。そこまで考えて、バルコは、シナモンが名前を取り戻した時の、急にこどもらしさを取り戻したときのことを思い出した。泣き笑いの表情。それから、腕の中に消えた甘い薫り。

「こちらです」
案内されたのはやはり、昨日シナモンたちと語らった書架のあたりだった。だが、足が沈むような絨毯やふかふかの安楽椅子、ランプの燈された小卓などはなく、同じ空間のはずなのに、ひと晩の間に空気ごと色あせてしまったような感じすらする。今は、むき出しの木の床の上に古びた書架がひとつ、忘れ去られたように佇んでいた。バルコの肩辺りまでの小ぶりな書架には硝子が嵌められていたが、それも長年の埃で曇っていて中は見えない。

司書は埃を指で拭い、曇っていた硝子のおもてに小さな窓を作って中をのぞくとうなずいた。立て付けの悪い蝶番をきしませながら硝子戸を開くと、司書は膝をかがめて中を検分した。
「香料に関する資料はこれだけです」
バルコは一瞬期待したが、やはりそこには香料たちの小壜はなく、ごくありきたりの書物が並んでいるだけだった。
「ありがとう、後は自分で調べてみます」
バルコが礼を言うと、司書はごゆっくり、と去った。

司書が去り、古い書架とバルコだけが取り残されてみると急に静けさが広がった。二階には人けがなく、吹き抜けから人の声や足音が入り混じった階下の賑わいが反響して、一階の吹き抜けからぼんやりと上がってくる。手すりから階下を見下ろしたが、頭上から見下ろした階下で立ち働く人々はどこか人形舞台の人形のように愛らしく見え、バルコが立つ世界からは遠く離れた出来ごとのように感じられる。ここは一階よりも時の流れがゆったりとしているような気がする。

書架まで戻り、バルコは指定された棚から一冊の本を抜き出した。ページをめくると、古くなった紙が粉になって落ちてくる。どの本も、長いあいだ誰の目にも触れてこなかったようだ。

古いページをめくりながらもバルコの目は文字の上を滑り、いつの間にか昨日の香料たちとのやりとりを思い出していた。彼らはどこへ行ったのだろう。そしてシナモンも。

「香料」の括りにあった本を全て手に取り終え、ひとつ息をつくとバルコは硝子扉を閉めた。

この街での名残にと、バルコはもう一度書架を眺め、それから階下に降りようと思ったとき、ふと近くの書見台に一冊の本が置いてあるのが目についた。歩み寄ると、革の表紙の分厚い本だ。金の小口が鈍く輝いている。本の上には昨日の鍵がお守りのように置かれていた。手に取ってあらためると、やはり思った通り、鍵は古びた匙だった。植物の蔓が絡みついたような意匠が施されている。匙のくぼみに陽の光が溜まって、水のように揺れている。

「昨日の本だ。書架に戻したはずだけれど」
手に取り、ぱらぱらとめくると本の半ばに一枚の紙が挟まれている。「C―シナモン」の欄だ。紙には赤茶色のインクで文字が綴られていた。

「バルコへ。ぼくはもう司書ではなくなったので、いったん香料図書館は閉館します。また会う時まで、この鍵はバルコが預かっていてください。時々は使ってもいいよ」

差し出し人の名はなかったが、手紙には甘い残り香が移っていた。バルコは手紙をたたみ、それから鍵を取り上げると、ともにポケットにしまった。それから本を硝子扉の書架の中にしまうと、ゆっくりと階段を降りて図書館から出て行った。

「帰ったな、バルコ」
「ただいま。少し遅くなった」
「もう出航だぞ。持ち場につけ。そういや昼にはお前が好きな巻きパンが出たからな、取っておいてやったぞ。恩に着ろ」
「うん、ありがとう、ダッカ。あとで食べるよ」

急いで甲板に戻ったバルコは腕まくりをすると、マストに掛けられた縄梯子にさっそく取り着いた。するするとマストを登り、桟に結びつけてあるロープをほどくと白い帆が次々に広げられていく。帆は潮風を孕み、穏やかな曲面をかたちづくっていた。まるで、本のページを広げたところみたいだな、とバルコは思った。

マストの頂上まで登りつめたバルコは手をかざして、遠くに広がる街を見やった。美しい街並みは秋の陽射しに光っている。
「またね、シナモン」

正午になった。船は港を離れた。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392 ☆この話
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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