バルコの航海日誌 Ⅰ◆真珠の島《8》

Ⅰ◆真珠の島《8》


それから一年が過ぎ、次の春が来た。海は午後の陽ざしを受けて穏やかに凪いでいる。波を割って沖合から一艘の小舟が戻ってきた。漁師の兄弟が朝の漁から帰ってきたところだ。
微風が小舟を揺らす。波の合間に小魚が飛び跳ね、ときおり銀の腹をきらめかせる。弟が漕ぐ櫓の音が、子守歌のように眠気をさそう。兄は船べりに肩肘をついてうとうととしていた。

「ああ、いいあんばいだ、その調子、その調子。揺れないようにゆっくり漕げよ」
「のんきなもんだな、兄貴は。もう少し漕いだら代わってくれよ」
「まあいいじゃないか。おい、岩には気をつけろよ。船底が破れたら一巻の終わりだからな」
「分かってるって。もうそこに浜が見えてるよ」

弟は身をよじって浜辺を振り返った。いつも見慣れた光景だ。
だが、今日は視界に何か違和感があった。弟は櫓を漕ぐ手を止めた。額に手をかざし眩しそうに顔をしかめる。櫓の音が停まり、聞こえるのは波音だけになった。
「どうした」
「兄貴、ありゃなんだろう」
弟は浜辺を指さす。兄は身体を起こし、同じように手をかざした。砂浜は眩しく陽を反射している。

「何も見えないぜ」
「あれだよ、ほら、砂のうえに、あのまっ白えの」
「あれか。よし、船を寄せろ」
「わかった」
海上に再び櫓の音が響き始めた。浜まで漕ぎ寄り、船を降りた二人は顔を見合わせた。
「おめえ、こりゃ……」


家で繕い物をしていた娘は、ふと手を止めた。なにやら外が騒がしい。。窓の外に目を上げると、叫び声をあげながら子供たちが走ってゆくのが見えた。浜のほうに人が集まっているらしい。娘はある予感にとらわれ、針を置いた。

再び大声があがった。人々がいっせいに駆け出す。ざわめきのなか、娘だけは走らない。一歩ごとに、予感は確信に変わっていった。

娘が浜辺に着いたときにはすでに人だかりが出来ていた。娘の顔をみて、人々は黙って道を開けた。
波打ち際まで開けた白い道を娘は踏み出した。一歩ごと砂に足が沈み込む。たどり着いた先には彼の姿があった。

「おかえり」

娘の唇からは自然と言葉がこぼれた。娘は驚かなかった。むしろこの日が来ることを知っていたようにすら感じた。あの日潮に呑まれて去った愛しい者は、潮に導かれて帰ってきた。波と陽に洗われた、きよらかな白い骨となって。

衣服は朽ち果てていたが、全身の骨格は保たれていた。透明な波がさらさらと打ち寄せるたび、波に曳かれた貝殻屑が骨の間にちらちらと光る。

娘は砂浜に膝をついた。骨だけとなった腕にはあの日の腕環が陽の光をはじいていた。
「ようやく、逢えた」
娘は両手で包み込むように骸骨の手を取った。持ち上げたとたん、手首の関節が砕け、腕環は砂に落ちた。

村人たちは、ひとり去り、ふたり去りして、やがて浜辺には娘と骸骨だけが残された。娘は砂に両手をつき、覆いかぶさるようにしてされこうべをみつめた。

かつて娘をやさしく見つめ返した瞳の変わりに、今はぽっかりと白い洞穴ほらあながふたつ口を開いていた。骸骨を抱きしめようとしても、骨は細かく砕け、白い砂にまぎれてゆく。
せめてもと、娘は骸骨の胸に耳を寄せた。あたたかい鼓動の代わりに潮風が吹き抜けてゆく。耳元でカラリと何かが動く音がした。

娘が身を起こすと、白珊瑚でできた鳥かごのようになっているあばらの奥に、何かが引っかかっている。整然と並ぶあばら骨の隙間に、そっと指を差し込み、そろそろと引き出したのは二枚貝だった。絡みついた藻が海底で流れた年月を物語っている。

娘はしばらく掌の貝を見つめていたが、 胸元にひそませてきた小刀を振りかざすと、貝殻の隙間に刃を突き立てた。
ほとんど手ごたえはなく、柔らかい貝の肉に小刀は柄まで埋まる。そのまま貝殻をこじ開けると、桜色の肉の中に大粒の真珠が浮かんでいた。
濡れ光る真珠のおもてには虹が宿り、たったいまこの世に生まれ出たような純真さを放つ。

娘は真珠を見つめた。柔らかい艶を帯びた光は、まぎれもなく、あの人の眼差しのものだ。すべてを失ったあの夜から乾ききっていた娘の瞳に潤いが戻り、静かな光が浮かぶ。娘はかすかに唇を開いて真珠に寄せた。真珠に纏わる露は涙の味がする。

いつしか浜は日没を迎えようとしていた。波の向こうに陽が沈む。真紅と黄金の炎が紺碧の海一面に燃え立った。

夕陽を浴びた娘は再び小刀を手にした。柄の部分を両手で包み込む。深く息を吸い、握りしめた小刀を頭上に掲げると、一気に両手を振り下ろした。手に鈍い衝撃が伝わる。

切っ先が向けられたのはおのれの左眼だった。眼球は抉り出され、やがて砂浜に投げ出された小刀には娘の片眼が貫かれていた。
真っ赤な夕陽の色が頬を伝った。眼窩から溢れ出した血は髪に滴り、胸を緋に染め上げ、足首を濡らして足元の砂に浸みこんでいく。

娘はふたたび骸骨のそばにしゃがみこむと、海で最も大きく美しい真珠を、恋人の眼球を、今や空っぽになったおのれの眼窩に落とし込もうとした。だが溶岩のように溢れ出る血に、指はぬるぬると滑りまままならない。頭蓋を抱え込むようにして一息に力をこめると、最後にぐっと手ごたえがあり、真珠はするりと眼窩に入り込んだ。

もう、これで離れることはない。これで、一緒。

娘は黒い影となって動かない。
娘の頬に流れ続ける血を、あの夜の松明のように燃え盛る夕陽が赫々と照らし続けていた。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46 ☆この話
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?