バルコの航海日誌 Ⅰ◆真珠の島《9》

Ⅰ◆真珠の島《9》


王宮はいつものようにさわやかな朝を迎えていた。
緑に囲まれた中庭では、古い石像の口から新鮮な水が勢いよく迸っている。幾層もの岩盤で濾過された水は、高貴な身分の者にしか飲用を許されない特別なものだった。しぶきが水晶のようにきらめいて小さな虹を作る。

その虹の下で、かめに水を受ける者の姿があった。近くの大臣の屋敷から使いに出された下働きの小娘だ。この水で淹れたお茶を楽しむのが屋敷の奥方の毎朝の決まりとなっている。

娘は抱き上げた甕の口から溢れんばかりに水を汲むと、甕を地面に置き額の汗を袖で拭った。それから庭番が見ていないのをよいことに、両手に水を受けると数口飲み下した。これもいつものことだ。
「これでよしと」
甕を抱えあげると、一瞬足がふらついた。
どうしたんだろう。いつもと同じ甕なのになんだか重く感じる。甕の中を覗き込んだ娘は、くらりと眩暈がしたようだったが、頭を振って再び水甕を抱えなおした。

大臣の屋敷ではすでに茶の支度が始まっていた。
心地よい目覚めを迎えた奥方は身支度を軽く整えると、庭に出された小卓について淹れたての茶を楽しんだ。飲み終えてから、朝露に濡れた花々をゆっくりと眺め、それから朝の化粧をしようと立ち上がったが、ふらふらとまた椅子に座り込んでしまった。

「どうなされました」
召使が声を掛ける。
「なんだか力が入らないようだよ」
奥方の顔は青ざめている。心配した召使は奥方を支えようと手を伸ばしたが、身体に触れたとたんその顔を強ばらせた。
「奥方様、たいへんなお熱でございます。いますぐお休みになられますよう」

これがすべての災厄の始まりだった。
高い城壁に囲まれた王宮は風が通りにくい。屋敷の一部屋に発生した謎の病は、澱んだ空気の中、あっという間に城内に蔓延した。病に侵された者は、きまってひどい熱を出す。それから異様な喉の渇きを訴え、うわごとのなか苦しみながらこと切れていく。

感染を恐れて、窓という窓は閉ざされ、石畳を歩く人影は途絶えた。人々は室内に引きこもって死の恐怖に身を震わせていた。しかし人々はやがて奇妙なことに気づいた。病に羅かるのは王族や貴人といった身分の高い者ばかりだったのだ。これについては、様々な理由が取りざたされた。曰く、富を築くために重ねてきた代々の罪業の罰があたった、曰く権力に目が眩んだ貴人たちが互いに毒を盛ったなど。

しかしどの噂も決定打に欠け、最終的には、貴人たちの喉を潤すために内庭の水盤から汲まれていた特別な水が腐っていたせいだった、ということで、曖昧なうちに結論された。だが、いまさら水を変えても流行り病の勢いは止まらなかった。

治療法が見つからないまま、夏は盛りを迎えようとしていた。島の夏は厳しい。比較的冷涼な岩山を選んで建てられた王宮にも、盛夏には塩分を含んだ重苦しい湿気が海から這い上がってくる。

病禍の過酷さに恐れをなした宮廷医たちはすでに逃げ去っており、宮殿には隙をついて怪しげな祈祷師たちが入り込んだ。暗い廊下の奥をふと横切る黒衣の影や、干したヤモリを煎じたり護符を焚き上げる煙のせいで、宮殿はますます陰惨な陰を帯びてきた。王の前にご機嫌伺いに顔を出すはずの大臣たちも皆、臥せっているか死んでしまったかで姿をみせる者は誰も居ない。

王宮の一番奥の部屋、閉めきった扉の奥では、王と妃が息をひそめてこの恐ろしい病禍が過ぎ去るのをじっと待っていた。
しかし何重にも帳を垂れこめた帳の隙間から病は霧のように密やかに忍び入った。病は煙のように床を這い、寝苦しい夜、はあはあと息をつく王の口からその体内に入り込んだ。翌朝、尋常ではない汗にまみれて荒い息をつく王の姿を、王妃は気味悪げに見守ったが、病の骨ばった指先はすでに王妃を捉えていた。

寒気を訴え続ける王妃によって部屋の鎧戸は下ろされたままになった。室内は昼でも薄暗く、汗と臭い消しの香木の臭いが入り混じり、異様な臭気を放っていた。王たちは入浴もしなくなって久しく、豪奢な衣装も垢じみて饐えた臭いを放ち始めていた。蒸し風呂のような室内で、長椅子にもたれかかった王は、額にじっとりと汗をかいている。薄く開いた口から出る息はすでに弱々しい。

顎まで毛皮に埋もれた王妃は何事かを呟きながらがたがたと身を震わせていた。わずかに覗く顔は蝋のように血の気がない。うわごとの声が高くなった。
「寒い、寒い、暖炉に火を入れよ」
部屋の隅に固まっていた召使たちの耳にも声は届いた。だがお互い目をあわせて動こうとしない。明らかに発症している主人たちを恐れ、極力そばに寄らないようにしていたのだ。
しかし、王妃が尋常ではなく震えているのを見て取り、ついに召使の一人があきらめたかのように首を振って立ち上がり、暖炉に火を入れた。
薪は勢いよく火の粉をはぜ始めた。

「水を持て」
 苦しい息の下から、ようやく王があげたか弱い叫びは、薪のはぜる音に打ち消された。怪しげな薬も祈祷も効くはずはなく、火のような渇きが昼夜を問わず病人を苛み続けた。汗にまみれた王と王妃は、けして癒されぬ渇きに喉をかきむしりながら死んでいった。

その頃、ひとつの噂が島に流れた。
病が流行り出す直前に、王宮から一人の水汲みの女がひっそりと立ち去ったのを見た者がいるという。いまにして思えば、裏門から出て行った女は、このあたりでは見かけぬ顔だった。痩せた腕に黄金の腕輪をした女は、髪を長く垂らして片目を隠していたという。

王宮は無人となった。疫病を恐れて名うての盗賊たちすら付近には寄り付かなくなった。主をなくした宮殿はやがて静かに崩壊し始めた。石柱にはひびが入り、地響きを立てて倒れこんだ。天井や露台も崩れ落ちた。謁見の広間も瓦礫に埋もれ、玉座の位置も分からなくなった。城を囲んでいた貴族たちの館も、宮殿のあとを追うように崩れ、やがて一帯はすべて灰色の岩山に還った。

かつてあれほど珍重され、貴人たちによって宮廷や屋敷の奥深くに匿されていた真珠たちも、血筋の途絶えた王家の記憶とともに忌むべきものとされ、いまではその行方を知る者はない。
命を落とした数多の真珠採りのことも忘れ去られた。
真珠となった眼球たちは、今でも海の底でしずかに眼を瞑っている。

***

「——この婆の目はな、今ではほとんど見えなくなってしまったけれども」
語り終えた老婆は顔にかかった蓬髪を掻きわけた。瞼のたるみきった右目には濁り水のような光がかろうじて残っていたが、左目は完全に盲いてしまったのか魚の腹のように白く濁っている。

老婆は、指の腹で白い眼球をいとおしげに撫でた。
「これがな、その真珠よ。あの人の眼は、ずいぶん永い間一緒に居てくれたが、ずっとここに閉じ込めておいても可哀そうじゃ」

老婆は瞼を指で押し上げると、左目に入っている珠を押し出した。眼窩から外された珠にはわずかに虹のなごりが残っている。老婆は棚の隅にあった小箱を取り上げ、そっと珠を入れると、バルコに手渡した。

「お前は船乗りだと言っておったな。あの人は海が好きだった。どうか一緒に連れて行ってやっておくれ」

珠をはずした老婆の眼窩は底の見えぬほど深い洞窟となっていた。


「真珠の島」《完》


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855 ☆この話

■銀沙の薔薇
【1】水の輿こし https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?