バルコの航海日誌 Ⅱ◆銀沙の薔薇《12》
Ⅱ◆銀沙の薔薇
《12.帰還》
甲板は異様な雰囲気に包まれていた。
瞳に炎を宿したまま、アルジェはゆらりと立ち上がった。水に浸かっていた髪から滴がしたたり落ちる。船乗りたちは身がすくんだまま声も出ない。アルジェの指先が示す陸地は闇に沈んだままだったが、岬の突端に白い光の点が生まれた。点は闇ににじみだすように大きくなり、篝火のような光のひとむれとなった。
アルジェは瞬きもせず光を見据えている。胸が大きく波打ち、呼吸が高まっていくさまがバルコにも見えた。アルジェの呼吸に呼応するかのように陸の光が脈打ち始めた。アルジェの顔は蒼白だ。
船の周囲の海面が泡立ち始めた。ざわめく海は尖った角を立てて白く波頭が崩れる。風も強まってきており、横波を受けた船体が揺らぐ。うねりが大きくなるにつれ、船乗りたちの間に動揺が広がり始めた。大波にあおられたはずみにロープが切れ、押さえる間もなくけたたましい音を立てて積み荷が甲板に散乱した。
陸を見据えるアルジェの両眼は限界まで見開かれ、激しい息の音が笛のように細く引き攣れはじめた。
これ以上はあぶない。
甲板の誰もがそう思ったときに、人垣の中から声が響いた。
「娘を返すぞ」
張りつめていた空気の壁が破れ、人々は息を吐き出した。
人垣が割れ、前に進み出たのはじいさんだった。
「娘を戻そう。このままでは、船も娘も危ない。船を停めるよう船長に伝えろ」
じいさんの言葉が終わると同時に、ぐらりと少女の身体が傾いた。
「あぶない」
駆け寄ったバルコは少女が床に崩れ落ちる寸前に抱き留めた。目を開いた少女の瞳から赤い炎は消え、いつもの菫色に戻っていた。
「帰るんだね」
一瞬ののち、少女はゆっくりとうなづいた。
***
夜空には狼星の輝きが際だっている。
漕ぎ手の若者を伴い、アムディンは海上に小舟を進めていた。先ほどまで荒れかけていた波も静まり、櫂の音だけが響く。櫂を握る手にはほとんど力を入れずとも、滑るように小舟は進んでいく。アムディンは銀の気配を感じた。月光が海上につくる路が、まっすぐ船まで伸びていた。
狼星の下には黒い船影がそびえている。甲板にはいくつも灯りが動いている。船乗りたちが提げるランタンだろう。暗い海を進みながら、アムディンの中にはある葛藤が生まれ始めていた。
族長のつとめとして、これから自分は銀を迎えに行く。しかし、長でありながら夜張りを守りきることができなかった自分を、銀は許してくれるだろうか。
一族の守りである銀を幼い日から信じ切ってきたが、その相手に見捨てられるかもしれないという考えが初めて胸を刺した。幼い頃に、帰り道にはぐれたときのような心細さが自分でも戸惑うほどアムディンをたじろがせた。
銀が許してくれなければ…。その思いが心を凍り付かせる。誰かを失うことの恐怖、それは初めて知った感情だった。
では、逃げるか。アムディンは自分に問うた。否。答えは決まっていた。自分は何があっても銀に向かって舟を進めるだろう。
アムディンは、銀と過ごした日々を思い出していた。慕わしい、銀。幼かった時も、長となって迷い苦しんだ時も、銀の穏やかなまなざしはいつもアムディンのそばにあった。それらを思い出すたび、己の胸に安らぎが流れ出すのを感じた。
アムディンはもはや、自分をつき動かしているものが長としてのつとめではないことに気づいていた。なによりもいま、銀に会いたい。
自分の心は一族の禁に反していることに気づいていたが、心の中に不思議とおそれはなかった。銀を傷つけることは決してしない。だが、自分だけはこの想いに素直に生きよう。自分の中に生まれた強い気持ちからアムディンは目をそらすことをやめた。
***
甲板のアルジェが落ち着きを取り戻すとともに、荒波はおさまったが、船は新たな喧噪に包まれていた。
娘を返そうというじいさんの進言が船長に聞き届けられたのだ。
停泊の指示を受けた甲板はにわかに慌ただしくなった。非番の者もたたき起こされ、年少の水夫がマストをよじ登って帆を畳んでいく。
碇をつなぐロープが迅速に巻きほどかれ、暗い海に碇が投げ落とされた。
どぷりと音がし、黒い波間に小さく飛沫があがる。碇が海底を引きずる振動が鈍く船体に伝わり、やがて船は夜の海上に完全に停止した。
静かになった海上に波の音が響く。黒々とした波間を割って、浜の方から松明の火が近づいてきた。
弾かれたようにアルジェが海上に顔を向けた。
「舟だ」
「迎えが来たんだ」
甲板に囁きが広がる。
波に揺れる小舟の舳先に座を占める男は、銀色の毛皮をまとっている。松明に照らし出された横顔は精悍な印象だ。小舟は櫂の音をきしませながらバルコの船に近づき、横付けする形で停止した。火の色を映した波が海面にちぎれちぎれになる。炎の匂いがバルコのいる甲板まで届いた。
バルコは傍らのアルジェの様子を伺ったが、立ちすくむアルジェの瞳は凍り付いて動かない。手を伸ばせば触れるほど近くにいるのに、その瞳にバルコは映らない。
バルコは、アルジェを船に伴って来たときのことを思い出した。水の満たされたたらいで睡り続けたあと、一番星とともに目を醒ました異族の少女。はじめてバルコを見あげたときの焦点の定まらない瞳。
あの頃はまだ、アルジェの歌声も微笑みもバルコは知らなかった。
それから、いくつもの忘れがたい夜が船に訪れた。
そのアルジェの魂は還ってしまった。彼女は、もとの異族の少女に戻ってしまった。
波がしずかに船腹に打ち寄せる。
口をきく者は誰もいない。
アルジェが乗ったたらいは縄で四隅を結ばれ、均衡を崩さないよう海上に注意深く降ろされていく。アルジェはうずくまったまま身じろぎをしない。白い横顔が見える。
アルジェを見下ろすバルコの背後から低いうめき声が聞こえた。振り向くと、ダッカが握り拳をにぎりしめ、子どものように嗚咽をこらえていた。
たらいはそのまま静かに降下していく。
海上に停止した船に、アムディンは小舟を寄せた。甲板を見上げると、船乗りたちの顔がひしめくようにして船縁に並んでいた。去る者との別れを惜しみ、ひと目でも見送ろうと身を乗り出しているのだ。
子どものように泣きじゃくる者もいれば、おし黙っている者もいる。しかしどの表情も一様に愛惜に満ちていた。
甲板に群がる船乗りたちの顔をみて、アムディンは胸が苦しくなった。確かに銀はここに「居た」のだ。アムディンの知らない時間、アムディンの知らない温もりを銀は確かに生きていた。
これまでアムディンは、族長として銀の傍らに添ってきた。ともに一族を守る者として、触れることはなくとも誰よりも近くで銀を支えているという自負があった。
だが自分は、人として生きる銀の表情を知らなかったことに気付いた。
銀と自分をつないでいたものは、夜張りと族長としての関わりだけであり、自分は、ほんとうの意味で銀の素顔を見たことはなかった。銀が見せる貌は、あくまで夜張りとしての覚悟だけだったのだ。
遠い子どもの日のアムディンは、銀の幸せや銀の笑顔を無邪気に望んでいた。しかしその純粋な思いさえ、一族の掟や族長の名のもとに遠く置き去りにしてきたことに気付いた。
アムディンの胸を、悔悟と嫉妬が灼いた。激しい炎とともに、哀しみにも似たさざ波がアムディンの心に広がる。集落では皆が銀の帰りを待ちわびている。夜張りがいなくては一族の安全は保たれず、族長として銀を連れ戻さねばならないのはいうまでもない。
しかし銀はここでひとりの人間として愛され、自分の命を生きている。この温もりを銀から奪っていいのか。族長の身でありながら、たった一人の夜張りすら守り切れなかった自分が、彼らのもとから銀を連れ去ることは許されるだろうか。
アムディンがためらう間にもたらいはゆっくりと降下をつづけ、小舟の傍らに静かに着水した。
揺れ惑う胸中とはうらはらに、族長としての使命が反射的にアムディンの身体を動かしていた。気づいた時には舳先に立ち上がり、たらいにうずくまる銀に手をさしのべていた。
銀が顔を上げた。瞳がまっすぐにアムディンを射抜く。その瞬間、アムディンの心を、身体を閃光が貫いた。アムディンは理解した。
——銀は、自らの意志で帰ってきたのだ。
わたしは、わたしの居場所へ帰る。掟によって連れ戻されるのではなく、自分でそう選んだ。
強いまなざしはそう告げていた。
夜張りとして一族を想い、守る。それが銀の愛のかたち。一族、そしてアムディンもまた、自分が思うよりもはるかに大きい銀の愛のなかにいた。怖れることはなかった。銀は帰ってきてくれたのだ。そうだ。そして長として銀の想いを守るのもまた、自分の想いのかたちなのだ。
アムディンはまとっていた毛皮を脱ぐと、たらいの上の銀に着せ掛けた。互いの肌が触れないよう、毛皮越しに銀を抱え上げると小舟に移した。
甲板に立つバルコもまた、アルジェを見守っていた。
顔をあげたアルジェに男が手をさしのべる。男の目に光るものがあったように見えた。少女を迎え入れると、男たちはバルコの船に向かって一礼し、小舟は陸へ向かって漕ぎ出した。一族のもとへ帰って行く。
少女は後ろ姿を見せて遠ざかっていく。そのとき海上に大声が響いた。
「アルジェ」
少女は振り返った。叫んだのはバルコだった。船べりに身を乗り出して大きく手を振る。
「ありがとう、元気でね。忘れないよ」
刹那、少女の瞳は、いつかの夕に海風に吹かれていたときの童女の色に戻った。ついで柔らかな微笑みが浮かび、それからまっすぐ前に向き直った。その表情は、すでに凛とした夜張りのものに戻っていた。
漕ぎ手に向かって少女はうなづき、再び小舟は進み出す。やがて海上に美しい歌声が流れ出した。良き風を祈る幸いの歌。歌声は海上に銀色の水尾を引いて、遠ざかっていった。
「銀沙の薔薇」《完》
【バルコの航海日誌】
■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b
■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855
■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 ☆この話
■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?