碧い港のファンタジア《4》書店と天使(連作短編)
《4》書店と天使
青空の下に黄色い傘が開いた。傘は満開の花のようにくるくると回ったかと思うと、その陰から小さな女の子の顔が覗いた。
「きれい!この傘、ひまわりみたい!」
女の子の頬が薄桃色に上気している。
アンテは親方のおつかいで、仕上がった傘を注文主の家まで届けに行ったのだった。女の子とよく面差しの似た母親がアンテに微笑みかけた。
「いつも素敵な傘をありがとう。親方によろしくね。」
「ありがとうございます。確かに申し伝えます。きっと親方も喜びます」
今日の仕事を終え、アンテは開放的な気分で石畳の通りを歩いていた。この界隈は旧市街と呼ばれ、歴史のある建築物が立ち並ぶ。煉瓦造りの時計台、砂岩の柱を持つ銀行建築。だが通りで一番目立つのはなんといっても石造りの歴史博物館だ。流麗なカーブを描く丸天井を備え、威風堂々とした佇まいはこのあたりの王者といってもいい。青銅葺きの丸天井のはずれでは、苔むした石の翼を持つガーゴイルが通りを見下ろしていた。
かつてこの通りは馬車も多く行き交っていたらしく、摩耗した石畳のおもてには、うっすらとした溝となって、いまでも轍のあとが残っている。石畳に使われている石材の色はさまざまで、歩きながら注意してみると、ところどころ職人の遊び心を感じるような一角もある。グレーの濃淡で波打つようなグラデーションを描かれていたり、漆黒の石材をベースに、ちらちらと光る石英がリズミカルにあしらわれていたりと、通るものの目を飽きさせない。
大事な傘を届け終えてほっと一息というところに、この通りの晴れやかさはしっくりと来た。久しぶりにシャツでも新調しようか。そんな考えが浮かぶほどアンテは休みの午後を満喫していた。通りには良い仕立て屋があるのだ。腕が確かな割には値段が手ごろで、生地さえ上手に選べば、アンテの財布でも手が届く。アンテは伸びやかな気分で通りを見渡した。
と、アンテの額に、小さく冷たいものが当たった。空を見上げると今度は鼻の先をかすめた。空は晴れたままの、天気雨だ。透明なしずくが石畳を打ち、みるみるうちに通りは暗い灰色に染まっていく。全くついていない。傘工房で働いているくせに、自分の時に限ってこんなものだな、とアンテは苦笑した。
あたりを見回すと、博物館の先、石畳の小道をはさんで店が開いている。とりあえず駆け込むことにした。入り口の石段には激しい雨が白くしぶきを立て、アンテはズボンの裾を気にしながら、ガラスの扉を押した。
アンテが飛び込んだのは書店である。博物館に銀行、時計台と、界隈に居並ぶ大建築のはざまにあって小体な間口は目立たないが、外壁に用いられている石材の淡い灰色と、縦長の窓があいまって、瀟洒な存在感がある。直線的なつくり書店らしくすっきりとした印象だが、窓枠などには控えめな浮彫が施され、理知的な表情に柔らかさを添えていた。
厚いガラスの扉を開け、店内に身体を滑り込ませると、それまで背を圧していた激しい雨音は消え、代わりに温かいざわめきに包まれた。不意の雨に見舞われた人々で店内はすでに混み始めている。カップルや子供連れも多い。特に話題の小説や、輸入物の画集が並ぶ一角は人だかりができていた。
アンテも手近な一冊を手に取りかけたが、ふと思い立ってざわめきを離れた。人混みを抜け店の奥まで進む。壁沿いに専門書の棚が並ぶあたりまで来ると、周囲はいつもの落ち着きを保っている。本を手に取る客の姿もまばらだ。棚の列がとぎれたところにひっそりと階段がある。階段の存在は以前から知ってはいたが、これまでアンテは階上へ上がったことがなかった。古書を扱う二階へ上がる階段だ。
狭い階段は思いがけなく急だった。手すりにつかまりつつ上がると、登り切ったところに扉があった。扉には小さい窓がくりぬかれており、そこから光が漏れている。
重い扉にのしかかるようにして扉を開けたアンテは、目の前に開けた光景に息を吞んだ。隙間なく古書の並んだ書架が、煉瓦の代わりに本で築かれた城壁のように目の前にそびえ立っていたのだ。凝った書架は特注品らしい。半円形に弧を描いており、その曲面に並べられた書籍がせり出すような迫力をもってこちらに向かってくる。
アンテはしばらく呆然と本の壁を見上げていたが、目が慣れてくると一冊ずつの書名が目に入りだした。哲学書や宗教書が多いようだ。研究書らしい厚紙の箱に入った本が多く棚に並ぶが、刊行から長い時を経て、どの背表紙も一様に枯れ色に変色している。箱に入っていない本は、一冊ずつ薄紙が掛けられて、書名をうっすらと透かせている。書架に収まりきらなかった本は床にも積み上げられているが、古書店にありがちな雑然とした雰囲気はなく、どの本も丁寧に扱われているのが分かる。
積まれた本を崩さないよう、すり抜けるようにして注意深く歩を進める。弧を描く書架は、同心円状に組み合わされ、迷路の奥へ奥へとアンテをいざなう。棚に並んだ書名を目で追う。このあたりは宗教書に関する研究を集めた一角のようだ。次の書架へ移る。オルガンの技法、平均律、三声の技法。ここは音楽理論を中心に集められているらしい。その先は美術書が並んでいる。
書名をたどりながら歩を進めていくうちに、アンテは書架で描かれた同心円の中心部までたどり着いていた。中心部には、ひときわ丈の高い半円の書架が二つ向き合って、ほぼ閉じた環を作っている。回廊の中央に、本で築かれたバベルの塔がそびえているようだ。
わずかに開いた書架の切れ目から塔の内側にすべり込むと、天井から射した柔らかい光が包み込む。そこは思いがけず静けさと温もりに満ちた空間となっていた。本たちが醸し出す、清廉で、かつ親密な空気が辺りを満たしていた。
ここまでは誰もこない。本たちに守られた空間には、森のあずまやで雨宿りをしているような安らぎがあった。書架に寄りかかったまま、階下のざわめきと雨音が入り混じった柔らかい響きに、アンテはしばらく耳を傾けていた。
ひとときの雨が街を洗って通り過ぎたあと、通りには活気が戻ってきた。花屋は鉢を並べ直し、黒いエプロンの店員は路面に椅子を戻した。アンテもまた雑踏のひとりになった。
もしこのとき頭上を見あげる者がいれば、雨上がりの淡い水色の空を背景に、ひとりの天使を目にしたかもしれない。天使は翼をたたんで書店の屋根に腰かけ、軽く足を組んで本を読んでいた。まとった衣が微風にそよぐ。金髪の頭を傾げ、白い指が頁をめくる。口元に微笑みが浮かんだ。
しかし人々は天使に気づくかわりに、風に漂うよい香りに気づいた。香りは、雨あがりの新鮮な空気の中を薄紅色のリボンのようにたゆとう。辺りを見回し、やがて頭上をふり仰いだ人々が見つけたのは、人々の目に映ったのは 書店の窓辺に咲いている一輪の薔薇だった。
一部始終を眺めていたのは、博物館の丸天井のはずれに棲まうガーゴイルだけである。彼は退屈そうに肱をついて眼下を見下ろしていていたが、やがてあくびをすると、すっかり苔むしてしまった石の翼を雨上がりの空にふるった。
《完》
「碧い港のファンタジア」 全8話(連作短編)
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