『普通』って何だろう? 2
昨日のつづき
↓
昨日は、
・キウイの皮を
食べる『普通』と 食べない『普通』
・部室で
たむろする『普通』と しない『普通』
・上履き と呼ぶ『普通』
上靴 と呼ぶ『普通』
バレーシューズ と呼ぶ『普通』
体育館シューズ と呼ぶ『普通』
・ゴミを
持ち帰る『普通』と 持ち帰らない『普通』
・天動説が『普通』と 地動説が『普通』
「『普通』とは何ぞや?」を考えるために
いくつかの具体例を挙げてみた。
では、
これらの例から分かることは?
ここからは
『普通』という言葉の定義について
今、現時点で私が
「『普通』って普通こういう意味でしょ?」と思う
意見を述ベさせていただく。
今、現時点で
と書いたのは、
『普通』という言葉に対して
今、私が「これが『普通』でしょ?」と思っていることが、
数年後には、もしかしたら明日には
『普通じゃない』に変わっているかもしれないからだ。
もし変わっていたら、
その際はごめんなさい。
『普通』とは何か?
ある物事に対して
『普通』か?否か? を判断する際、
私たちは
個人、家族、集団、地域、国、人種、時代…
これらの枠組みの中から
その時々に応じて最も適した枠組みを選択し、
その枠組みの中で
最も確からしい意見、多数派の意見を
『普通』
と呼んでいるのではなかろうか?
だから
自分の『普通』と 他人の『普通』
自分の家族の『普通』と 他の家族の『普通』
自分の属する仲良しグループの『普通』と 他のグループの『普通』
自分の小学校の『普通』と 他の小学校の『普通』
自分の町の『普通』と 他の町の『普通』
自分の市の『普通』と 他の市の『普通』
自分の県の『普通』と 他の県の『普通』
自分の国の『普通』と 他の国の『普通』
自分の人種の『普通』と 他の人種の『普通』
自分の生きる時代の『普通』と 他の時代の『普通』
……
どの枠組みで物事を捉えるか? によって、
自分は
『普通』と考えている意見も
他の人にとっては
同じ場合もあれば、違う場合もある。
「そうだよねー、それが『普通』だよねー」
となる場合もあれば、
「いやいや、それ『普通じゃない』んですけど…」
となる場合もある。
そして、
自分の『普通』と
他の人の『普通』が違う時
自分にとっての『普通』が、
他の人にとっては『普通じゃない』時こそ
聞く耳を持たないのではなく、
無下に否定するのではなく、
「知らない」「分からない」からダメ ではなく、
自分とは違う考え方や価値観があることに気付き、
多様性の存在を認め、
その上で、
他の人は、
「なぜそれを『普通』だと思うのか?」
「どうしてそれが『普通』だと考えているのか?」と、
ちゃんと
「知ろう」「理解しよう」とすることが
大切なのだと思う。
私は『普通』で
あなたは『普通じゃない』。
他を否定し、無知のまま
「知ろうとしない」「分かろうとしない」と、
個人と個人だと、けんか
家族と家族だと、ご近所トラブル
国と国だと、戦争
人種と人種だと、差別や偏見
いざこざが起こるんじゃないか?
と思うのである。
自分と他人は違って当然。
それはたとえ親子であっても
親と子どもは違って当然。
「いつまでごはん食べてるの?」
「いつになったら起きるの?」
「なんでこんな問題もできないの?」
「どうして遊んだおもちゃを片付けないの?」
こんな言葉をかける前に
子どもをよく見てあげてほしい。
一度立ち止まって考えてみてほしい。
親にとっての『普通』で
物事を判断してはいないだろうか?
子どもの『普通』を
「知ろう」「理解しよう」としただろうか?
例えば
「いつまでごはん食べてるの?」なら、
親が『普通』に箸を使えるからといって、
子どもも箸くらい『普通』に使えるだろうと
思い込んではいないだろうか?
親にとっては『普通』の大きさの唐揚げも
子どもにとっては大きすぎやしないか?
子どもの『普通』は、
「親子丼や牛丼、丼物は箸ではなくスプーンで食べるもの」
ではないだろうか?
子どもの『普通』には目もくれず
思考停止で
「あなたは『普通じゃない』。」
と子どもを否定することだけは避けてほしい。
それは
子どものことを
「知ろう」「理解しよう」としていないのだから、
「私は無知なままがいいです。」
「私は考えない人なんです。」と、
親自身が宣言しているようなものである。
そんな親は悲しい。
そんな親の子どもはもっと悲しい。
親の『普通』だけで判断せず、
子どもの『普通』を
「知ろう」「理解しよう」とする。
親の『普通』は、
子どもの『普通』か?
私の『普通』は、
その人にとっても『普通』か?
その人の立場で、その人の気持ちになって
その人にとっての『普通』を考えられる人になりたい。