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俺達は、グンになれないーマレビトと「バリバリ伝説」のリアル
バイク誌「MOTO NAVI」2014年10月号の「バリバリ伝説」の特集「俺達のバリバリ伝説。」では、いくつかの記事を書いています。
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その中で、全三部38巻の物語のあらすじをまとめた「ストーリー解説」は、連載時から読者だった僕にとって、名誉であることはもちろん、じつに難しい仕事でもありました。
というのは、当時と今では、同じ物語に対し、全く違う感慨を持ってしまっているからです。
免許の“とれない”高校生だったころの僕は、主人公のグンが、苦悩や、困難に正面から立ち向かう姿にこそ、ヒロイズムを感じていました。
僕はグンになりたかった。もちろん、世界チャンプになりたいと思っていたわけではありません。
大学生になったらミニバイクレースに参戦してみたい。NSR50でサーキットを走ってみたい──そんなささやかな夢です。
でも現実の大学生活は、アルバイトの掛け持ちに追われても、食費にすら事欠くような毎日でした。自転車の一台も買えないのですから、ミニレーサーなんて夢のまた夢です。
いつしか僕は「バリ伝」に、グンに憧れたことも忘れ、上京直後に上野のバイク街で買ったアライのスペンサーレプリカをしまいこんだ場所さえ、わからなくなってしまいました。
グンは確かに、数々のライバル達と、あるいは非力なマシンを限界で操ることと、全身全霊で戦っていました。
しかし、そのバトルを支える才能は、天賦のものとして、じつに潤沢なものです。
また、経済的にも、環境にも終始恵まれていて、ガソリンやタイヤを買う費用や、マシン整備に睡眠時間を奪われることに悩むことも、ついぞありませんでした。
つまり、グンはウルトラマンのようなスーパーヒーローではあっても、読者の等身大の憧憬や苦悩を投射できるような存在ではなかったのです。
そんな特別な存在に、素直に憧れることができたのは、バブル前の日本の、右肩上がりの成長が幻想ではなかった時代の空気がさせたことかもしれません。
そして、今になってこの物語を読み返すと、グンになれなかった、グンに届かなかった登場人物の存在こそが胸に迫ります。
カルロス・サンダーや、星野アキラ、ヒデヨシは、彼らの才能や環境は間違いなくgiftedであっても、スーパーマンであるグンには全く及びません。
そして、より一層僕の心に刺さったのは、サトルや郷田、荻野目といった、グンと同じ土俵に上がることすらできなかった、敗者たちの存在でした
彼らの業や悲しみこそが、今となっては切実に迫ってくるのです。
そうした思いは、もう一つの担記事「キャラクター紹介」にも込めました。
また「ストーリー紹介」でも、アンダーソンや星野アキラの、どんなセリフを引用したか、という視点で形にしたつもりです。
そして、そうしたルーザーの象徴として取り上げたのが、ヒデヨシの妹、知世の最後の登場場面でした。
「そんな熱戦が繰り広げられた鈴鹿サーキットを、レースも見ずに立ち去った一人の少女がいた。兄ヒデヨシの死後、転校していた妹の知世だった。『うちはもう平気。お兄ちゃんの分もがんばります......』」
残念なことに、編集でカットされてしまいましたが、たしかにメロウが過ぎたかもしれません。仕方なかったかな、とも思います。
しかし、この物語のリアリティは、タクシーの運転手として食い扶持を稼ぐ荻野目や、グンが世界チャンプになるレースを、鈴鹿のスタンドで観戦している郷田とサトル、あるいは物語から途中退場するしかなかった知世の存在にこそあります。
彼らは、そして僕たちは、決してヒーローになどなれない。
しかし、それでも生きていかなければならないのです。
「バリ伝」の素晴らしさ、そして残酷さは、グンという絶対的なヒーローと、どうすることもできない圧倒的な敗者が、同時に存在することにあると、あらためて思い知らされました。
その残酷なテーゼは、しげの秀一さんの代表作「頭文字D」でも再び登場します。
主人公の拓海は、才能、経済力、環境に恵まれたヒーローです。
しかし周囲の若者たちは、ガソリンスタンドでのアルバイトや、援助交際という名の売春が精一杯のリアル、という地方都市的デストピアをやるせなく生きている。峠でのライバルの中にも、金銭的な限界とこそせめぎ合っている悲しみがあったりする。
グンは、拓海は、超人としてのマレビトなのです
年男や稚児、あるいは旅人、外国人といった「役割」としてのそれではなく、ニーチェ的な超人としての圧倒的な存在です。
俺達は、グンになれない──グン、あるいは拓海の圧倒的な魅力は、超越的存在としての圧倒的ポテンシャルと、それを見送ることしかできない圧倒的多数の無力感にこそ支えられているのです。
さて、僕のスペンサーレプリカは、その後、実家のガレージでダンボールに入ったまま、埋れていたのを見つけました。
インナーがグズグズということもなく、充分使える状態だったことには驚きました。
今さら大型免許は無理かもしれないけれど、バイク、乗ってみたいな
また思い始めています。
そんな風に、僕は「バリ伝」と、バイクを“再発見”することができました。
それはとても、幸せなことだと思います。
僕は、荻野目や郷田どころか、サトルのようにすらなれなかったけれど。