大手商社マン⇨農家マンになろうと思ったら和歌山横浜の2拠点生活になった話
24年3月から横浜と和歌山の2拠点生活を始めました
というより、2拠点にならざるを得なくなってしまいました、、
という話
■私の経歴
和歌山(高校卒業)⇨京都(大学1年)→大阪(大学4年卒業)→広島(3年)→東京(5年)→2拠点生活(イマココ)
まさかこんなことになるとは、、
その経緯なんかを書ければと思う
■商社時代の違和感
元々は商社マンだった私
完全に年収とネームバリューだけで決めた会社だった。
ただ、3年ほど勤めた後に違和感を感じ始めた
「海外勤務や引越しの多さでこのまま続けていいのだろうか?」
と悩み出してからは早かった。
地元の和歌山に帰るために独立を目指して異業種に転職
その後、当時の部長を誘って起業した
苦節6年、、やっと地元に帰れる準備が整ったぞ!
と意気揚々と家を建てたが現在月の半分を横浜の取引先に訪問することとなってしまっている。この背景なんかを少し語れればと思う
■お金と自由の葛藤
一部上場のある程度有名な商社へ勤めていたため、年収は相当良かった
人間関係にも、仕事にも満足感があった。
ただ、この生活を定年まで続けることで
家族との時間や、自分が本当に生きたい人生を生きれるかと問い直すと
答えはNOだった
やるには早い方がいい、と4年目に差し掛かるところで私は商社を退社した
何故田舎へ帰るのか?詳しくはこっちでまとめている
■農家へ向けて動き出すも、、
私の実家は代々の農家
せっかく外で飛び出したのだから、その経歴を何かしら地元へ返していきたい
その想いだけでまずは商社からスーパーマーケットのブランドコンサル会社へ転職をした
ブランディングなんかを行いつつ、小売側の知識もつけておきたいと考えたからである。
仕事は商社時代と比べると相当楽であった。ベンチャーぽいところだったが、少し拍子抜けした感もあったが別世界で勉強にもなった。
フィジカルの世界から、別の脳みそを使う世界に入った気分だった。
それなりの時間を過ごしてはいたが、
元々私の目的である「地元へ帰る」気持ちは全く変わらなかった
ここで私は2024.3月に地元へ帰ると決めた
■(寄り道)勢いと起業
そんな時コロナ禍がやってきた
私は移動時間などに上司と色々なビジネスアイデアを出し合いながら過ごしていた。
そのアイデアの1つにコロナ禍だからこそやるべき仕事だというものがあり、
一念発起、二人で起業をすることとなった
そこからは全くやったことのないECの世界へ飛び込み
様々なチャレンジをした
私はこの仕事であれば和歌山へ戻ってもやれると確信し、道は違えど目的地に着地できることへ気分が上がった
■前職の取引先からの大口案件
EC事業を手掛けている最中、
前職の取引先から声がかかった、相当の大型案件でチームを組織しないと受けられない額と規模
ただ、その時すでに家を建てると決めていた私は24年3月の完成に向けて契約を行なってしまっていた。
私は相当悩んだが、地元へ帰ることを前提にその仕事を受けることとした
チーム編成や組織作りに相当な時間を費やし
気づけば家が完成していた。
■結果としての2拠点生活
そんなこんなあって、現在は月の半分を横浜で、月の半分を和歌山で過ごす2拠点生活になってしまっている。
片道約5hをかけて移動、新幹線代も家を建てたのに横浜のワンルームを借りて住むといったある種意味のわからない格好になっている。
ただ、正直なところ満足している点もある
都会的な生活と、田舎での理想の暮らしのいいところ取りができる点である。
横浜にいる際は中目黒や新宿など刺激的な場所におり
和歌山にいる際は自然に囲まれてBBQをする生活
意外と悪くないのかもと今は感じている
■お金の話
商社を退職した時から、収入と自由を天秤にかけ自由を取ったつもりであった(実際転職で給与は半分になった)
しかし現在起業をして事業がある程度うまくいくと
商社の役員クラスの収入も得つつ裁量権もあるといった
ある意味最も理想に近い暮らしをしているのかもしれない
ただやはり、和歌山に腰を据えたい気持ちもある。
お金と田舎暮らしの両立を本当に実現できるかはこれからの活動にかかっていると思う。
終わり