ダ・ヴィンチコードを乗り越えて [第四章]
Last Decode
最後のDecodeは、ダン・ブラウンが「Da Vinci Code」で披露したDecodeをまさに乗り越えてゆくこととなります。本シリーズのタイトル「ダ・ヴィンチコードを乗り越えて」の核心となるお話。ダン・ブラウンほどの大物が語ったなら大炎上となりますが、わたくし程度の魔女でしたらボヤで済みますので包み隠さずDecodeしてゆきます。
勘違いしてほしくないのは、ダン・ブラウンは嘘をかいた訳ではないということ。半分本当で半分”沈黙”と言ったところ。嘘ではないのです。言うなれば、違和感に気づける者へのメッセージとも受け取れます。賢者は意味のない言葉より、意味のある沈黙を好むことを忘れないでください。
違和感
まずはダン・ブラウンのDecodeの違和感についてご説明申し上げます。ダン・ブラウンはヨハネをマグダラのマリアに見立ててイエスの左隣に移動させました。ではパスを重ねた以下の画像を元にお考えください。
ダン・ブラウンがヨハネを移動させたイエスの左側には、重要な象徴である”トマスの手”と”ヨハネと兄弟の大ヤコブの手”が収められています。ダン・ブラウンほどの識者が大切な象徴を重ねて見えなくしてしまうようなヘマはいたしません。ゆえにとても違和感が生じます。
なぜそんなことをしたのか?と。
また、第三章で述べたようにセフィロトが示されているにも関わらず、『最後の晩餐』からは最も重要な「理」がすっぽりと抜け落ちております。この”すっぽりと抜けているもの”を象徴的に申し上げるなら”月”です。この象徴を『最後の晩餐』に組み込んだ時、前述の違和感は解消され『最後の晩餐』の真の姿が顕現します。
それでは最後の深淵に光を当ててゆきましょう。
足らぬもの
繰り返し
最後の晩餐の部屋はセフィロトそのものでした。しかしセフィロトには無くてはならないものが足りていません。何が足らないのでしょう?
セフィロトの「1・ケテル」と「10・マルクト」に注目して下さい。どちらも「1/10」と記されています。この意味は、セフィロトの右隣の図が示すように”繰り返し”です。この繰り返しが最後の晩餐には欠けています。少々抽象的ですので、ヒンドゥー教と古代エジプト神話の三位一体を用いてご説明申し上げます。
我々の住む現実世界は必ず時間の制約を受けます。宇宙で物質化したものは時間の制約の中で形を成し、いずれ必ず死を迎えます。永遠の命というものは存在しません。ヒンドゥー教の三神一体「創造・維持・破壊」で示される理です。形あるものいつかは崩れる諸行無常の理なり。
しかし諸行無常の理ながら、宇宙は終わらず無限の連鎖は続いております。なぜなら、形を成した生命は必ず父性・母性のどちらかを有し、似て非なる対でまぐわり子をもうけるから。エジプトの三位一体「父・母・子」で示される理です。
第二章のDecodeを思い出して下さい。最後の晩餐には太陽を利用した地球の周期という「創造・維持・破壊」の繰り返しは示されていました。しかしながら地球に住む人間の生命の繰り返し「父・母・子」は示されておりません。簡潔に申し上げますと、雄蕊と雌蕊が受粉しタネを残し”種”を繋ぐと言う自然界に当たり前にある理が、最後の晩餐には描かれていないのです。
………わたくしとした事が少々遠回しに語り過ぎてますね。はっきりと申し上げましょう。
キリスト教では権威・教義のために、処女懐胎の寓話「受胎告知」や、死後に復活する伝説「キリストの変容」のような「あり得ない神話」を現実のものとしました。ですからまずいのですよ。端的に申し上げればイエスの神格化のために「人にあらず」「現人神」を徹底しましたので、イエスに”先駆者がいたり嫁がいたり子供がいたり”してはまずいのですよ。”神の子”を”人の子”と言うようなもので、この宗教の根幹を揺るがす話です。イエスは唯一無二の神の子でなくてはなりません。
ですから「ダヴィンチ・コード」が欧州で流行ったとき炎上したのです。ダン・ブラウンはイエスに”嫁と子供がいた”と書いたのですから。半分沈黙して”あの炎上”でしたから、さすがと言ったところ。全部語っていたらどうなっていたことでしょう?そして冒頭でも申し上げましたが、わたくしはダン・ブラウンほど影響力はありませんので全部Decodeしてしまいます。
二つの繰り返し
岩窟の聖母
この絵画についてのお話は、映画「Davinci Code Decoded」で語られたお話ですが、「最後の晩餐」を読み解くにあたりとても参考になるため少々補足し先にお伝えいたします。
ダ・ヴィンチが描いた「岩窟の聖母」は聖母マリアと幼児キリスト、天使と幼い洗礼者ヨハネが描かれた作品で、ルーヴル・ヴァージョンとロンドン・ヴァージョンの2点が存在します。ここではロンドン・ヴァージョンをDecodeしてゆきます。
この作品からは ”あってはならない” 二つの繰り返しが読み取れます。正統派権力がとても嫌う話ゆえ、大きな声では言えませんが、小さな声では伝わりませんので、割とはっきり申し上げてゆきます。
あってはならない二つの繰り返しのお話。
天使とイエス
天使は天の使いであり、角度の擬人化(Angel / Angle)であり、抽象的に語るなら智慧の象徴です。そんな象徴の隣に描かれているのは幼子のイエス。このイエスはご覧の通り誰かに智慧を授けられています。幼子のイエスの視線を辿れば明らかですね。要するにイエスに智慧を授けた人物がいるという事。言ってしまえば、智慧というものはイエスが最初でもなく、また全てでもなく、イエスの生まれるずっと以前から「繰り返し受け継がれてきたもの」です。
イエスの象徴の頭上に大抵添えられている「I.N.R.I」の顕教的な意味は、ラテン語の「Ievs Nazarenvs Rex Ivdaeorvm」の頭字語で、意味は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」です。(密儀的な意味は後述します)
古代イスラエルの王ソロモンが、己の神殿を建築する際に頼ったのはフェニキアの王ヒラムだったように、民族の王に何かを伝承できるのは同じ位の王です。つまり、ユダヤ人の王イエスを洗礼できるのは、同じくらい偉い”どこかの民族の王”ということ。ただし、こんなことは我々の住む現実世界(Matrix)ではあってはならないことです。イエスは唯一無二の神の子ですから、神の子に教えを説き洗礼を施すような同格のどこかの民族の人物がいてはならないのです。
………しかしながら………大体はねぇ…察しがつくのですよ…
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