そして母は
母はまるで天職のようにハハコシアターの仕事にのめり込んで、まるで共稼ぎのように家を留守にすることが多くなった。私たち子供も巻き込まれることが多くなった。弟は幼稚園が終わると母にハハコシアターの事務所に連れていかれ、そこで一人でおとなしく遊んでいた。私も学校が終わるとそこへ来るよう、言われていた。
事務所は家から歩いて行ける場所で、最寄駅まで行く途中だった。行ってもすることがないので、宿題をしたり置いてある絵本を読んだりしていた。母は私たちのことを振り返りもせず、熱心に仕事を手伝っていた。そこでの時間は退屈過ぎて、私は早く帰って友達と遊びたかった。母が事務所に行かない日は本当に嬉しくて、母が「やっぱり事務所に行く」と言う前に(時々あった)さっさと遊びに行った。
母は今までにないくらいにハイテンションで仕事をしていた。水を得た魚のようだった。ハハコシアターが会員に配布している新聞に、私の名前で勝手に詩を送り、掲載されると嬉しそうに見ていた。詩は父がゴリラ、母がオラウータン、弟が日本猿、私はチンパンジー、まるで我が家は動物園、という内容だった。私は詩を書くのがその頃好きだったが、まるで私が書かない内容なのでこれを知っている誰かに見られたらどうしよう?と恥ずかしかった。まるで私が書いたように「よかったわねえ」とニコニコしている母が嫌だった。父は知っているのか知らないのか、知らん顔だった。
それから頑ななくらいに人見知り過ぎる私を、子供だけの座談会に無理やり放り込んだ。結局、私は固まったまま一言も喋らずに終わってしまった。団体が一番 苦手なのに、ハハコシアターが主催する子供キャンプに夏休みに一人で放り込まれた。私はトラウマでアウトドアが大嫌いになった。今でも大嫌いだ。
母は懲りない。またもや団体に参加をすることになった。ハハコシアターで出会った人が入っている人形劇団に入ってしまったのだ。その人形劇団はPといい、子供向けの人形劇を幼稚園や小学校に出向いて上演していた。メンバーは皆主婦だった。母は水を得た魚どころか、水族館から大海に放り込まれた海亀のように活動にのめり込むことになった。
母はPdの下っ端のような仕事から、いつしか人形劇に参加するようになっていった。練習場所は当時の最寄駅の反対側から少しバスに乗った場所で、私が連れて行かれることはあまりなくなった。が、時々県内でも少し遠方に上演に行くことがあり、当然のように一泊することになった。土曜日が学校が休みではなかった時代だから、夏休みだったのかもしれない。
田舎の学校で人形劇を上演し、夕飯を食べてから母たちは打ち上げをしていた。その間に子供たちは安いホテルの大部屋にたくさんの布団を敷いて、そこで寝かされた。ここでは私は弟のお守りをしないといけなかったのと、似たような境遇の子供たちばかりだったせいか、なぜか私の人見知りは出なかった。一番年上の女の子と二人でおしゃべりをしたり、ごっこ遊びをしたりした覚えがある。その子が遠くに見える灯台の灯りに気づいて、「ガラスにハーッて息を吹くと灯台がキラキラして見える」と言って、二人でいつまでも窓ガラスに息を吹きかけて見ていた覚えがある。
そんな泊まりが何回かあったけれど、父は何も言わなかった。たぶん、母は家の仕事も必死にやっていたのだろう。もしかしたら、人形劇の方が母の息抜きになっていたのかもしれない。
しかし、やがて母はハハコシアターもPも両方辞めなければいけなくなる時が来たのであった。