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【感想】いのちの初夜

 タイトルからして絶望や漠然とした死への願望の中から何かを見出した夜の話なんだろうなとは思ったけど、まさしく「いのちの初夜」だったね…そんなことを思いながらタイトルを検索したら川端康成が改題したものらしい。川端康成はまだ読んだことがないけど、なるほどと思ってしまった。この六文字から滲み出る言葉のセンスよ。
 何でも、作者の北條民雄は病棟に入った後に川端康成に師事したらしい。不等に差別されることも多かったはずのハンセン病患者の作品読んでくれたのか川端康成…

 北條民雄の本名や生い立ちは、彼の生誕100周年にあたる2014年に地元の冊子で初めて公開されたんだそう。死後約80年間、ずっと隠されてきたというわけだ。

 北條民雄の親族=ハンセン病患者の親族だもんね…当時なら公開はできなかっただろうな…と思うと同時に、差別はやはりあったのだと確信してしまう。そんな中でもペンネームでとはいえ作品を公表した北條民雄と、それを後押しした川端康成の存在は社会的に大きかったんだろうな。


 作品はこちらから全文読めます。さすが青空文庫。

 原題は「最初の一夜」。何にせよ語り手・尾田、そして作者にとってこの一夜があらゆる意味で「初めて」だったのだろう。
 以前noteで感想記事を書いた「蜆」と同じく、某ゲームのプレイヤー紹介画面でおすすめされていた青空文庫で読める作品。プレイヤーランクごとの表示っぽかったとはいえそれなりのプレイヤー数がいるゲームでランダム表示だったので、この出会いは間違いなく奇跡。

 印象的だったのは冒頭の書き方。状況説明がない。尾田の過去の話もなく、なぜこの場面から始まったのかの解説もない。無論尾田がハンセン病――作中では癩(らい)と表記されている――であるというのがわかるのは作中の会話を通してなので、前情報なしではなぜ尾田が何の病院に何を目的として向かっているのかさえわからない。病院を遠目に捉えながら歩き病院へ入ってようやく、その辺りの情報が出揃う。後から川端康成との関係を知ったけど、どことなく「雪国」の冒頭を思わせますね。

 私的な話、この書き方、好きなんですよね…ファンタジー作品でよくある「この世界はこういう世界です」っていうあの冒頭説明文、存在意義がないと思っています(過激派)。小説の書き方としては推奨されてるみたいなんですけど。世界観というのは説明するものではなく、登場人物が動いたり喋ったり眺めたりしているその動作そのものを許容している事実のことなので…喋る小動物従えた登場人物が三つ頭の犬型モンスターを前に杖振って呪文唱えて魔法使えばそれで世界観解説終了なんですよね。

 で、この作品の冒頭は以下。

尾田が病院へ向かっている
→抗いようのない自殺思考となかなか死ねない自分への呆れ(その中で二日前に病院へ入ることが決まった、という情報が提示される)
→病気のため片方の眉がないという情報提示(この後、たびたび他人からの視線や扱われように屈辱を覚える)
→病院の他患者の外見(特に顔と髪)を気にする描写
→病院の中へ
→尾田のフルネームが登場人物のセリフを通して提示
→尾田が「癩」であることが示される

 なお、「癩」が読めず知識もなかった私はこれを何らかの皮膚病か何かだろうと思いながら読み進めることになる。でもそのくらいがわかってるだけでも全然問題なかった。作文の上手さは冒頭に出ると思っています。いやあ上手いな…
 この後初めて真正面から同病者の顔を見ることになるのだけれど、その描写が生々しい。よもや妖怪か化け物を描写しているかのようで、その後も他患者の様子が赤裸々に描写されるのだが、あまりにも人間の形を失っているその光景に私は「癩」というものがファンタジーなのではないかとさえ思ったのでした。そんなことはなかった。まじか…ハンセン病という名前もそれによる差別も耳にしたことはあれど、この病は恐ろしいな…外見が醜悪になる病気というのは身体への物理的な害とは別の意味でその人の命を生きながら奪うんじゃなかろうか。

 さて、じわじわと屈辱を体感しつつある尾田は主要人物である佐柄木と顔を合わせる。彼もまた同病人であり、尾田の病室の付き添い役でもあり、看護手のように他患者の世話をするのだという。
 この辺りの当時の状況についてわかりやすい記事を見つけたので載せておきます。

 情報の裏取りまではしてないので確かな情報とは言い切れないんですが。この記事によれば、ハンセン病の病棟では軽症者が重症者の世話をしていたらしいです。今後自分もこうなるかもしれないという絶望的な未来の可能性が目の前にある環境ってキツいな…

 じわじわと確実に病気への絶望を感じつつ、尾田は一度病院の敷地内で首吊りを試みる。が、足が滑って一瞬実際に首を吊ってしまう。数行しかない「死にたいけど死にたくない」心情描写があまりにも現実的。作品冒頭でも木の枝を思わず見てしまう等の吐露があるのだけれど、経験したことのある人は「あー、あれね…」となるに違いない。あまりにも身近で明瞭な希死念慮、そのくせどこからか湧き出してくる目に見えない生への渇望、望み通りのことができない自分への諦念と失望。

 この後佐柄木と話した後、唐突に悪夢が始まるのだけれど、「夜になり眠りについたら夢を見た」という説明なしに「あ、これ夢だ」と読み手に直感させるのすごいな。それも、殺される恐怖から逃げている悪夢というのが意外というか。てっきりここで悪夢を見るとしたら生き地獄だと思っていたので…体が、皮膚が、顔がただれて朽ちていく、誰もが自分を嘲笑ってくる、病気がほぼ進行していない佐柄木がただれた自分の体の世話をしてくる…そういうの。
 ここで死への願望を増させる夢ではなく生への願望を自覚させる夢を持ってきたことに、作者の意図があるような気がしてならない。深読みかもしれないけどね!

 夢から覚めてトイレに立った後、尾田は痛みにうなされたり南無阿弥陀仏と唱え続けたりしている同病者を横目に佐柄木と話をする。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
 そんな回答に困る強烈な問いかけの後、佐柄木は「人間じゃあないんですよ」とこれまた強烈な答えを自分で言う。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。」
「誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。」
 強烈で、だからこそ真に迫る、おそらくは作者が到達した答えなんだろうな。なお、この場面より前に佐柄木は尾田に「癩病に成りきることが大切」と助言をしている。つまり「あなたはあなたという人間が既に死んでいることを理解し、今の自分は"いのち"が生きているだけという現状を受け入れろ」という主張。あまりにも地獄。諦めにも似ているし、悟りにも似ている。尊厳という単語はニュースなんかでよく聞くし何となく意味を理解してはいるけれど、ハンセン病患者になってしまったが最後必ず尊敬が失われるのだとさえ言わしめるこの絶望が、誰でもなく自ら尊厳を手放さなくてはいけないこの世界が、実在したのか…
 なお、ここで熱弁を続ける佐柄木に対して尾田は呆気に取られながらも「この男は狂っているのではないかと」怪しむ。読者側としてもあまりの熱量に圧倒されて先の「いのちが生きているだけ」という綺麗で整った主張が霞んでしまっている。ここで語り手と読者の歩みを揃えてくれたのはありがたい。せっかくの(おそらく)作者の主張を「痛々しいな…」と思わなくて済むのはとてもありがたい。尾田が入院したばかりの軽症者であることが、(ハンセン病という視点からすると)健常者である我々読者とハンセン病を受け入れた佐柄木を繋いでくれている気がする。

尾田に向かって説きつめているようでありながら、その実佐柄木自身が自分の心内に突き出して来る何ものかと激しく戦って血みどろとなっているように尾田には見え、それが我を忘れて聞こうとする尾田の心を乱しているように思われるのだった。

北條民雄「いのちの初夜」

 そしてこの一文が秀逸。先の「いのちが生きているだけ」論に焦点が合いがちだけど、私はこの作品で一番素晴らしい文章はここだと思う。「いのち」云々は作者が心の中に生んだ揺るがない答えだろうけど、この一文は間違いなく作者の頭がこの描写のためだけに作り出した、この作品のための文章だ。

 この作品自体は佐柄木のその言葉を中心とした語り合いで一夜を明かして終わりなのだけれど、尾田の日々はここから始まる……つまりこの作品は尾田のいのちの前日譚。この先の尾田のことは誰にもわからない。
 けれど、せめて尾田が、そして作者がこの後の日々を顔を上げて生きていってもらえたらと願うくらいはハンセン病と縁がない私にも許されたいものです。